園だより(令和7年度9月)

武蔵野を知っていますか。埼玉県川越市以南、東京都府中までの間に拡がるのが武蔵野。都市化により自然環境は大きく変わってしまいましたが、この幼稚園の園庭は昔の武蔵野の面影を留めています。

年々暑さがつのりますが、夏木立が作ってくれる濃い木陰のありがたさを身に沁みて感じた日々。子どもたちの大好きな幼稚園のお庭を、大切に守り育てていかなくてはと、心に定めた夏休みでした。

長年愛読しているお茶の水女子大学編集『幼児の教育』(創刊124年)に、編集委員の先生がたの座談会が載りました。その中で倉橋惣三著「子どもの自重心」についての紹介があったので記載されている倉橋惣選集『育ての心』を広げ、この本が手もとにあるありがたさをかみしめたことでした。

編集の先生がたの思いと重なるいろいろを、内包しながら展開しているのがこの園の保育の日常なので、この編集収録の一部をお伝えすることにしました。お母様がたの日常のお役に立つのではと思います。

編集の先生がたの事例と重なるのが、仲良しになって嬉しい高階幼稚園森の組の3歳児AちゃんBちゃん。

(座談会のA、Bちゃんは午睡の事例で担任が関わっていないため)お弁当の時、AちゃんはBちゃんのカバンを自分の隣の席に置き、他のお友達は座れないようにします。Bちゃんを独占したいのです。こういう場合、担任はどうするのでしょうか。

AちゃんやBちゃんが入園した当初、不安や不満をかかえた子どもたち一人ひとりに尽くしてきた担任。「作って作って!」「く早く!」「私が一番!」という森の組の子どもたちを、ある時はいちばん早く、そのうち少し待たせて、待っていたら心から褒めて、静かに待っていたらそのことを褒めて、という保育の日常を生きてきました。

子どもそれぞれの思いを形にしようとする、意欲的で一生懸命な日々が、子どもと保育者の間柄を深め、その信頼関係を軸に、お友達どうしも安心して仲良しになるのです。

Bちゃんを独占したいAちゃんに担任は言います。「みんなお友達よ」と。「だってBちゃんと一緒がいいんだもん」とBちゃんのカバンを離さない、Aちゃん。「そうね、でもAちゃんが自分のことばかり考える人になっちゃう。大変」。クラスのお友達を見ながら、「みんなあなたのお友達よ」と担任。

何かを感じたAちゃんはBちゃんのカバンを返し、Bちゃんは自ら他のお友達の隣に座りました。Aちゃんもお母さんのお弁当を広げ、気を取り直していいお顔になりました。「自分のことばかり考える人になっちゃう」は小さい人には難しいかもしれませんが、Aちゃんは保育者の表情から感じ取ったのでしょう、「いいことではない」と。

座談会では、「倉橋惣三を読む会」のK先生から、A、Bちゃんの事例が先日研究会で読んだ「子どもの自重心」と重なったというお話が出ました。「自重って自分で自分を大切に思うことなんですけれども、自重心が自制心につながっている感じがする」と。

倉橋先生の「子どもの自重心」を紹介します。

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世にある最も誤った教育として、子どもの自重心を害する教育ほど恐ろしいものはない。

折角我々が子どものために尽すのも、つまりは子どもを正しい自立に至らしめたい、が目的である。子どもの心の正しい自立といえば、すなわち自重心がその根底になければならぬ。もし誤ってこの根底を壊せば、いろいろの世話もがえって仇になる。

(略)自動心とは読んで字のごとく、自らこれを重んずるというに他ならぬ。

(略)自動とはこれをこれの真価通りにおくことをいうのである。

自分の真価という線から下へも下げなければ上にも上げないことである。この線から下へ下がったのが、いじけである。卑屈である。自悔(自分を軽んじること)である。この線から上へ上がったのが、いばりである。傲慢(ごうまん)である。自惚(うぬぼれ)である。

(略)信じられては自ら信じ、愛せられては自ら愛し、重んぜられては自ら重んずるのは人の心の常則である。これにおいてこそ実に謙遜なる自重心が養われる。
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“謙遜なる自重心”とは自制の利いた自重心というべきものなのでは、と倉橋研究会のK先生。

「自分で自分を大事に思うことと、自分でちゃんと抑えを利かせることって、すごく重なってくるんですよね。研究会の中である先生が言っていたんだけど、主体性っていうのは、今まで、アクセルを踏むこと、何かを発揮するこどだと思われていた。例えばAちゃんがBちゃんに隣りに来てほしいっていうような自分の中の感情とか感覚を表出したり、発揮したりすることだと思われていた。発揮することを”アクセルを踏むことってその先生は言ったんだけど、なんだかそれだけだと傍若無人な子も主体性があることになっちゃって、ずっとすっきりしなかったんですって。それで研究会の中で倉橋の文章を読みながら、”ブレーキを自分でちゃんと加減することも主体性なんじゃないかな”って言ったんです。その時にその場が”ああ”っていう納得感に包まれたのを思い出しました」

A、Bちゃんの事例、K先生の研究発表は、お若いお母様やお父様のグレーゾーン、判別できない領域を考えたり判断したりする手がかりになったのではと思います。A、Bちゃんの担任が子どもたちにかける短い言葉は、そのうち子どもたちどうしの間で使われていくのです。

もし私どもの保育のあり方が、子ども中心でなく大人中心で一方的な、一人ひとりの思いを形にすることのない一斉保育であったなら、そんなことは考えたくもありませんが、「自分は大切にされている」という安心感や信頼感が、子どもたちの心に満ちることはないと思います。森の組のAちゃんBちゃんは、安心感に満ち、担任との心のつながりがあるからこそ、自ら感じ、考え、判断しようとする子どもに育ちつつあるのです。

私どもは子どもさながらの遊びの生活を壊さず、その中に教育を入れ、ある時はお手伝いさん、ある時はお母さんやお父さんで、ある時は子どもになり、それでいて先生で、という保育を続けてきました。

そういう生活の中、一見取るに足りないことのように思えるいろいろなできごとの中から、子どもたちの中身が見えてきます。そのことこそが幼児教育の肝腎。これはご家庭も同じです。

何かをやらせて、できたとかできなかったで判断しがちの我が子の発達。目立つ外側ばかり見ていて、お子さんの中身の乏しさに気づかずに幼児期を逸してしまったら、後戻りはできないのです。3歳は3歳の、4歳は4歳の、5歳は5歳の、そのお歳の時に使っておかなければならない力があるのですから。

山の組で繰り広げられている”山の遊び”。

ドキュメンテーション(ブログ)でもお伝えしましたが、電車や線路を作って遊んでいる年中児のCちゃんDちゃん。手が利くようになってきたので、描いたり作ったりがおもしろくてたまりません。そのうち大きな山が作られ、山のふもとにはもちろんCちゃんDちゃんたちの線路がつながりました。

山のふもとから頂上まで、らせん状の登山道も作られ、山の組の子どもたちの「こうしたい」が集まります。販売機やお店やさん、虫やポケモンたちの家や気球の発着場などが登山道に沿って次々に作られました。

Cちゃんはこのらせん状登山道に線路を描き登山鉄道にしたかったのですが、線路を描いてしまうと電車しか通れません。「車や人も通るんだから線路描いてなくても電車も走れるってことにしたら?」と年長児ちゃん下ちゃん。「幼稚園はトクベツだからね」ということで(ちゃんは線が描かれていない道に電車を走らせ、満足していました。

山の遊びのイメージはいろいろに広がり、そのうち山のふもとのC、Dちゃんの線路の反対側に、海を作ろうということに。「こっち側ならいいよね」とEちゃん下ちゃん。「ここからは砂浜だからここまで線路描いていいよ」とC、DちゃんのことがよくわかっているE、Fちゃん。さっそく線路の工事にとりかかるC、Dちゃん。

誰もいじけてもいないしいばってもいません。自分のことばかり考えている人もいません。山さんたちは持っている自分の力を正しく一生懸命使い、意欲を形にする生活を繰り広げています。

子どもたちと共にいると感じます。この子どもたちの中に養われつつあるのは、自ら感じ考え判断しようとする「謙遜なる自重心」なのだと。

幼児時代を精一杯の力で生きようとする子どもたち。その幼児時代を精一杯の力で支えようと生きる保育者たちの2学期が始まりました。幼児期は思ったより短いもの。表向きの建て前でなく、お母様がたと本心で伝え合い、話し合い、一日一日を大切に生活したい。子どもたちの中身を豊かに育てるために———。そう願う9月、法師蝉鳴く幼稚園です———。

倉橋惣三:日本の幼児教育の父といわれる先生。「幼稚園のお庭」「山のともだち」「まがりかど」他たくさんの作詞もなさり、子どもたちに歌いつがれています。「子どもの自重心」の文章の難しい言いまわしを少しだけ簡単にしてしまいました…。先生、ごめんなさい。