園だより(令和6年度9月)

2学期が始まりました。フランスでのオリンピックは終わりましたが、幼稚園のセミたちのオリンピックはツクツクボウシが参加してまだ続く気配です。セミの地下生活は約5年。17年という種類も。4年に1度の人間たちのオリンピックをしのぐ年月、暗い世界で一生けんめい生きてきたのですから、なごりの夏の光をいっぱい吸って、力のかぎり鳴いてほしいです。命輝く幼稚園のお庭で、バッタやカマキリも成長しています。先生やお友達との再会、虫たちとの再会。子どもたちにとってどんなに嬉しいことでしょう。

幼稚園は夏休みの間にも、味わい深い再会がありました。在園母子だけでなく、卒園なさった母と子、他県に転居なさったかたたちまで、あたりまえのように遊びに来てくださったのです。途切れていた時間がなかったかのような遊びを、意欲的に、繰り広げました。小学校中高学年の子どもたち、在園児たちや小さいごきょうだいたちとは、互いに顔見知りでないのにもかかわらず、あっという間に仲間どうしになった魔法のような時間でした。大きい人たちの親切。その親切を受け取る小さい人たち。どちらにも豊かな心が育っているのです。

卒園お母様たちのお子さんは、中学・高校・大学生・大人になり就職や結婚。小さかった子どもたちがお父さん やお母さんになり、お母様ご自身は「ばあば」になったかたも。「子どもってすぐ大きくなっちゃうんですね」。本当にそうなのです。子育てが始まった頃はこの時間が永久に続くかのように感じていたのに、案外短いものなのです。

「子どもたちとの間柄はあの頃のままです。いろいろなことを話してくれるし、聞いてくれる。大きくなってもかわいいです。 いい子に育ったと思っています。幼稚園は私も子どもも本当に楽しかった。本当は保育所に預けてお仕事しようと思ってい たんです。幼児期がこれほど大切だと知らなかったから。高階幼稚園に出会えてよかった。子どもとの絆を太くできたのは、この幼稚園のおかげだと思っています。子育ての具体的な助言は目からウロコでした」。「あの頃私は子育て本に浸かっていたから、頭が硬かった。それで、こういう時はこうしていると言ったら『そうじゃなくてこう。こうしてみたら。 だまされたと思って』と先生に言われてそうしてみたら、子どもがうんとかわいくなって私も子どもも安定してきて…。だまされてよかったです」。などと笑い合ったりもしました。信じていただき嬉しいです。人を信じられない人は、自分も信じていないのかもしれませんね。

お子さんが成長なさり、お仕事復帰、というかたが多いけれど、「子どもを深く学んだということは、人間を深く学んだということ。こわいものは何もありません」とおっしゃるお母様。”ばあばちゃん”になられ「育て方を伝える立場になったのだなあ、と実感しています。幼稚園で身につけた歌やダンスは娘も私も覚えていて、いろいろに使っています」。楽しそうにおっしゃるお母様も。嬉しいですね。

忘れられない数年前の夏のことです。卒園後30年程経ち、お孫さんを連れ訪ねていらしたお母様はこうおっしゃっていました。「小さかった娘をおじいちゃんに預け、幼稚園の送り迎えから何からみんなやってもらって自分は仕事。それで満足していたのに、定年になった今、後悔しているんです。娘のこともわからないし、孫のことも何もわからない、ということに今になって気づきました。恥ずかしいけれどこの歳になって子どもの育て方がわかりません」。

ご自身のキャリアに胸を張っていらしたあの頃のお母様の自信に満ちた表情と一緒に、娘さんAちゃんの不安そうなお顔とおじいちゃまの控え目な笑顔がよみがえり、切ない思いで一杯になったことでした。過ぎた日々は戻らない、子育てはやり直しができないのです。Aちゃんのご家族は卒園後まもなく転居なさり、お母様は時折お手紙をくださっていました。その頃はAちゃんの成績優秀なことや、志望校に入学したことなどが誇らしいお母様でした。お母様の期待に答えてがんばっているAちゃんの姿が見えるようで、複雑な気持ちでお返事を書いていたことを覚えています。

幼児の教育は日常にあります。お母様とAちゃんは共に生きる日常がなかった。短い幼児期、字や数字のお勉強でなく心のやり取りをしながら細やかに生きられていたら、Aちゃんの育ちを日常生活の中で嬉しく実感できたでしょうに。お互いどうし、信じ合い、成長できたでしょうに。不安から始まったAちゃんの年少時代から自らの力を 使って充実した年長時代のAちゃんの心の成長を思い浮かべたことでした。心の成長は目に見えないけれど成績はひと目でわかります。お母様の満足はAちゃんの成績の中にしかなかったのかなと、良い成績で良い大学や会社にということが子育ての成功だとお考えだったのかなと思います。親のプライドのためだという気づきがあったならと、いえ、あったのかもしれません

この幼稚園はこの地で70年近くも幼児たちと共に生きてきました。都市化の波が押し寄せて、時代が変わり、子どもたちも変わってきました。母たちも都市化し、大人たちの身体を使った日常生活が子どもたちの目の前から消えていき、模倣の時期にある子どもたちの、具体的で魅力的な人間としてのお手本も、伴って消えていきました。身体を使った具体的な生活、日常の生活習慣が幼児の脳を、心を育ててきたのですが、子どもの脳は何を拠りどころにして育っていったらいいのでしょう。

“脳”というと大脳と思われがちですが、幼児の肝腎は小脳なのです。赤ちゃんが生活の中で母親から自然に習得する言葉、母語に関与するのも小脳です。小脳は“忘れない脳”なのです。「おいしいね、おいしいね」と言いながら家族で食べた母の味も小脳。外国へ行っても食べたくなるでしょう。小脳は生活習慣の脳、覚えている脳です。ちなみに外国語。例えば英語。幼児の頃から覚えさせれば習得が早いと言われています。が、外国語は大脳の管轄。大脳は忘れる脳ですから覚えても忘れてしまいます。入園前から英語の塾に通っていたお子さんもいらっしゃいましたが将来英語を生かした道に進んだかというとそんなことはありません。「忘れちゃった」のだそうです。卒園母に英語塾の先生もいらっしゃいますが、幼児コースはなさっていません。

「脳教育」という言葉が流行った時代がありました。幼児期の早期教育、大脳教育に実りはあったのでしょうか。その頃の子どもはとっくに親世代です。いわゆる大脳教育で育った親たちも、我が子を優れた人間に育てたい。 その思いは情報社会を模索しています。いえ、情報に不安を煽られているのかもしれません。お子さんが言葉を話すようになると教えれば何でもわかる、と思ってしまわれるのですね、きっと。いろいろな情報が飛びかっていますから、心配性のお母様ほど、少しでも早い方がと、幼児向け通信教育や何かのおけいこ事で早期に大脳を発達させたくなってしまう。みんなもやっているからと。我が子に考える機会を与えましょうと、日常のいろいろな場面で理詰めの説明や言い聞かせが増えたりもします。

“身体より言葉の方が高級”。“動くより言葉で誘導”が主流になり、身体より言葉でお子さんを動かそうとする母が増えました。日常生活で心と身体を動かす小脳教育が大切な時代に、いわゆる早期の大脳教育で幼児としての時間を区切られたり奪われたりしても、幼児には反論できません。「今の私にふさわしい教育をしてほしい」などと言えないから、不安や不満が小さな心に積み重なります。

それなのに大人たちから“イヤイヤ期”などと不名誉な呼ばれ方をされなければならない幼児たち。小さな幼児たちはお母様の言動や家庭のふんい気を吸収し、お母様の判断力を手に入れながら育っていくものなのです。それなのに主体性を育てるべく「あなたはどう思う?」「どうする?」と問いつめられたり、つき放されたりするのです。お母様と一心同体でいられる大切な期間がうんと短くなって、不安定なお子さんが増えました。心配性のお母様が増えたからかもしれません。

母語の習得もまだなのに、もう集団生活をしなければならない保育所のお子さんたちは、さぞかし不安定なことでしょう。お母様とのいつもの日常生活の中、自然に身につく言葉という意味で“母語”なのですから母語”など という言い方は禁句になる時代がそこまで来ているのかもしれません。多くの乳幼児が赤ちゃんの頃から保育所や子ども園で長時間母と離れ、集団で育てられるわけですから。乳幼児の小脳、日常の生活習慣から養われる”心”はどう発達していくのでしょう。

幼児は小さい大人ではありません。子ども”という言葉でひとくくりにされますが、3歳は3歳の発達があり、 その時使っておかなければならない力を使って生活しなければなりません。その上で千歳は4歳の、5歳は5 歳の、その時使うべき力が使えるようになるのです。そうでなければその人生のしっかりとした基本は築けないのです。 早くしっかりさせましょうといろいろさせているとその年齢としての力が使えなくなります。自分の力の上に知識という荷物が積み重なってしまい、持って生まれた自分の力は下積みになって使えなくなるのです。これは何十年もお子さんたちと生活してきてわかったことです。

一斉保育をしていたら、いつまでたってもわからないでしょう。毎日知識を上積みしているわけですから。「〇ちゃんは昨日こうだったから、今日はきっとこうしたいだろう」というように、一人ひとりについての細かな指導案があるわけでなく、多数ひとまとめの画的なやり方なのですから。先んじて教えておけば今は遊べず楽しくないかもしれないが、後が楽だろうということなのでしょう。幼児は”が大切なのです。受け身の教育で幼児の脳は育ちません。

オリンピックがあったりするとつい勘違いしてしまいそうになるかたもあるかもしれません。 「我が子もあのように、今がつら くても乗り越えて成長してくれるのでは」と。けれどそれはマチガイです。不安から始まる人生がいいわけはありません。幼児は自ら遊ばなければなりません。楽しくおもしろく、精一杯の力で夢中になって遊び、充実するから成長するのです。今生きている自分の世界につらいことが多かったらその世界を信じることなど幼児にはできません。ママのことも信じられません。だってママは今の年齢としての自分を評価していない、信じていないのですから、お母様を信じられるから世界が信じられるのです。信じることのできないお子さんは、機嫌が悪く、心が硬く、お友達や先生にもなかなか心を開きません。柔かい心を持った子どもに戻すのに、半年も一年もかかります。いえ、もっとかかるお子さんも。

幼稚園で伸びる子どもはどんな子どもか。母と子が信じ合い、お互いを味わいながら、楽しい日常を過ごしているご家庭のお子さんです。お母様にうんとお世話をしてもらい、うんとかわいがられ、お母様にうんと甘えている心が柔らかいお子さんです。そういうお子さんが持って生まれた力をしっかりと使いながらぐんぐん成長していくのですよ。

こんな事例はいかがでしょう。砂場ではだしになって遊んだ後、たらいにお水を入れて、どろんこの足を洗ってあげます。大勢で遊んだのでたらいの向こうに何人も並びます。お片付けの時間だから大忙しなのですが、洗った後拭いてあげる時、足のうらもきちんと拭きます。この様子を外側から見た大人は、口で言ってやらせた方が教育的だときっと考えるでしょう。やってあげていたらいつまでたっても自分でできるようにならないと。子どもの身になって考えてみたらどうでしょう。大好きな先生の手が、自分の足を洗ったり拭いたりする感覚。足のうらもきちんと拭かれてさっぱりと気持ちいい。どんなに心が動くでしょう。さあ、きれいになった!お部屋のおやづけ手伝ってこよう!先生に言われなくても自ら意欲的に次の行動を考えます。大脳の前頭前野を大いに動かして。

そしてそういう的を重ね、大きい組の大きい人になった子どもたちが、小さい人たちの足を洗ってあげている様子を見ていると、先生に自分がしてもらったように足のうらまで拭いてあげています。してもらうからしてあげる心の柔らかい人に育つのです。口で言ってやらせていたらそういう心は育ちません。口で言うだけの人になってしまうのですよ。

涼しくひんやりする季節になったならたらいのお水は少なくします。「なぜだろう?」「ああ、かぜひいちゃうからだな」と、こちらから言わなくても子どもたちは考えるでしょう。幼児の教育は日常の中、いつとはなしにいつでもしているものなのです。親切に丁寧にお世話することは、精神的な教育であり次への意欲や思考を育てることなのです。意欲や思考や 情操に関与するのは大脳の前頭前野です。

遠方に転居なさったお母様から嬉しいお手紙が届きました。大きくなったお子さんたちの生き生きとした生活ぶりが書かれ、最後にこう結ばれていました。「人生、毎日いろんなことがあるけれど、私たちを支えてくれるものは幼稚園の生活です。 幼稚園の日常が大きく助けてくれていると感じています」と。幼稚園という所は子どもを取りまく環境、あらゆる行為が渾然一体となって影響し合いながら、お互いどうしを育てる所なのです。お互いどうし心も頭も身体も大いに動かしながら。

2学期、新しいお友達が加わって新しい始まりです。幼児の生活は遊びです。楽しくおもしろく味わい深い今の生活があるから、人も世界も信じられるのです。一人ひとりが持って生まれた力を精一杯使って心豊かに成長していけるよう、育てる者どうし信じ合っていきましょう。

お母様にも幼児期があり、育てられた歴史があります。それを背負って子育てをしているわけです。どうしても不安になってしまうかた。割合に楽観的なかた。どちらもいらっしゃいますが、不安をお持ちのお母様の方が多いと感じています。 せっかくお母様になったのだから、時が過ぎてしまわないうちに、お子さんと一緒にご自身の幼児期をもう一度生きたらいいと思います。この幼稚園で。楽しく苦しく苦楽しく、ご自身もお子さんも信じて。そう祈る9月、なごりの夏の幼稚園です。

 

【コラム】目を見ない方が教育効果があるという事例

「私も子どももくたびれてくる夕暮れ時、幼稚園のリズム遊びがとどこおった空気を動かしてくれ、気持ちを引き上げてくれます」「お風呂はしやだと言っていても私がありやちょうちょをやると子どもも後をついてきて、そのまま機嫌良く入浴してくれます」

叱ることがなくて嬉しいとおっしゃるお母様が多い中、「うちの子はダメなんです」というお母様も。「私が歌ったり動いたりするとやめて!と言われてしまいます。ありをやって誘ってもお風呂に入ってくれません」そうおっしゃるお母様は、もしかするとお子さんの目を見ながらさあ一緒にやりましょうと言わずとも目で誘導なさっているのかもしれません。

お母様がありになればいいのです。ありは行く手を見、ちょうちょや小鳥は上を見上げ、楽しそうになさればその方がお子さんの心が動きます。心が動けば身体が動きます。ついつい“言い聞かせ”てしまうお母様のお子さんは目を見てたくさん言われていますから、お母様がこちらを見るとつい身構えてしまうのかもしれません。私ども保育者はありをやるちょうちょをやるのではなく、ありやちょうちょになることを心がけ生活しています。