園だより(令和7年度6月)

幼稚園の木々の緑が落ちついた色合いになり、6月がやってきました。お庭のそこここに咲く花たちは、初夏を告げています。

季節はめぐり、時はあっという間に過ぎ去り、地球が速く回り出したのではと思うことさえあります。子どもたちの幼児時代も思いの外短いもの。子どもたちには二度とめぐってこない幼児時代を精一杯生きてほしい。お母様がたには、あああの時こうしておいて良かったと心から思える幼児の母時代にしてほしいと願います。

5月のこと、3歳児Aちゃんのお母様からこんなお話が。「ママ、幼稚園ってね、大変なんだよ、ずーっと遊んでなきいけないんだから」。「小さな子どもがそんなことを感じているんだ。いいなあ、おもしろいなあ、毎日一生懸命遊んでいるんだなあ」と嬉しそうなお母様。お家にいればちょっと飽きたら冷蔵庫を開けたり、ママのお膝で甘えたりできるのに、幼稚園にはお友達がいて、仲良したちとの遊びに心が動き身体が動きます。

お庭にゴザを並べ、ヘビになったりサメになったりしながらごっこ遊びを続け、そのうち自分たちではアイデアがもう出なくなった頃、保育者が遊びの中に流れ込みます。くたびれかけたサメくんたちが遊びを立て直し、もっとおもしろく展開して行けるように。行動のモデルをしたり、言葉でイメージを広げたりしながら、保育者は遊んであげるのではなく、今あるよりも子どもが一歩先へ進めるよう援助するのです。

この自然幼稚園を上から眺めると、そこここに子どもの遊びの生活が、繰り広げられています。

ブランコを漕ぐ子ども。鬼ごっこの子ども。砂場でレストランの子ども。虫取りの子ども。お部屋ではおままごとの子ども。製作する子ども。大小の積み木を使い、製作した乗り物や人形を動かす子ども。ツリーハウスで家族ごっこの子ども(ツリーハウスはもうすぐ修理完了)。

幼児教育の基本は環境を通して行うものです。幼児の主体的な遊びを中心とした生活の中、保育者が一人ひとりにちょうどいい援助をする。すなわち、子どもさながらの遊びの生活を壊さず、その中に教育を入れていく。これが本来の幼児教育です。

ブランコの子どもの背を押す保育者、漕げるようになりたい子ども。ちょうちょや小鳥やロケットになってお空を飛びたい子ども。しっかり持ってね、手を離さないのよ、と言いながら一人ひとりの背中を、保育者は身体を使い、両手でリズミカルに一生懸命押します。ブランコの歌や、ちょうちょや小鳥や宇宙の歌など歌いながら。背を押す保育者の手と声ブラニコは音楽リズムの指導(硬い言葉ですが)の要素もあるのです。

公園のお母様たちの片手の省エネモードと、保育者の両手から伝わるエネルギーとでは背中から伝わる満足感が全く違うでしょう。

ブランコの順番を待つ子どもだって、一緒に歌ったりしながらきっと楽しいでしょう。保育者はそちら側にも行き、一緒に待ちます。「一生懸命待ってえらいわね」と言いながら。「たーくさん漕いだら代わってくださる。やさしいからね」と待っている子どもの方を向いて心から言うと、本当に代わってくれる。保育者は嬉しくて心から褒めます。”20回漕いだら代わる”などという作られた受け身のルールでなく、「あ、代わってあげよう」と感じて代わるのです。代わってもらって嬉しいからまた誰かに代わってあげる。”ブランゴの時だけでなく、遊びの生活を支える保育者の真実性と響き合っているのです。

鬼ごっこの子どもたち。少し大きくなったとは言っても、一学期の子どもたちの鬼ごっこはすぐ終わってしまいます。鬼になったものの、なかなかお友達に追いつけない子どももいます。保育者が流れ込み、手をつないで一緒に走り、タッチしたり、逆に鬼が速い場合、のんびり屋さんの手を引いて逃げたりもします。

そうしながら、だんだん子ども同士で鬼ごっこが続けられるようにするのですが、保育者が入ると、今度は保育者ばかりを追いかけたくなる子どもも。保育者はなるべく固定遊具の向こう側など、遠まわりして走ったりし、お部屋の製作の援助にも行きます。

机に散らばった紙やペンを整理しながら、製作のお世話をしていると保育者がいないことに気づいたお庭の鬼ごっこチームの一人から、「せんせーえ、はやくー!」の声。「行くわよー!今行くわよー!」と保育者は必要なことを済ませ、またお庭へ走ります。製作の子どもたちが保育者の手を必要とする頃またお部屋へ。おままごとで熱中している数人の衣裳をたたんだり、上ぐつを揃えたりもし、鬼ごっこの様子を見てまたお庭へ。鬼ごっこが子ども同士の力で続くように、入ったり出たりします。保育者も子どものようになって。困難度を今の子どもの力で乗り越えられる程度にして、達成感を味わえるように。

思いを形に表したくて一生懸命なお部屋の製作も、遊ぶために乗り物やお人形を作っているのですから、友達同士イメージを共有しながら遊べるように、積み木でトンネルやお家など途中まで作り置いて、お庭へ出ます。困難度を今の子どもの力で乗り越えられる程度にしておいて。

おままごとのお部屋にも保育者は神経を使います。今の時期はまだまだ散らかりやすく、そのままにしておくと、ままごと用エプロンやスカートなど踏んでしまって平気な神経を育ててしまいます。先程も申しましたが、踏まないよう棚の上に乗せたり、上ぐつもあちこちを向いていたら揃えておきます。製作のような直接的な指導でなく、中間的な指導にあたります。

毎日これを何度もくり返していると、そのうち自分達でお家がひどくならないよう神経を使いながらも、遊びの熱中が続けられる時がやってきます。

ぐしゃぐしゃの中で遊んでいたら、もうそれ以上イメージが広げられずそこで遊びは終わってしまいますから、保育者はその「いつか」が来るまでまめまめしく親切にお世話を続けます。今している遊びをすっかり片付けて、あるいは片付けさせて、それから次の遊びを、という主義(?)のかたがいらっしゃいますが、それとは違います。そんなことをしょっ中していると、創造性は育ちません。

鬼ごっこを続けると何か飲みたくなりますから(実際水分摂取していますが)砂場のレストランにも行きます。保育者がお客様になれば、子どもたちも行きたくなります。お客が途切れていたレストランの店主も張り合いが出るでしょう。

「たくさん走ったのでのどが乾きました」「いちごジュースおいしいですよ」(さっき拾ってきた赤い花びらが入っていて美しい)。「ああ、冷たくておいしい!」「が入っています、プリンも冷たいですよ」砂のプリンも花びらや葉で飾りつけてあっておいしそうなのですが、テーブルに直接作ってあります。

「あ!」といい事を考えた保育者。大きめの葉っぱを見つけてきた保育者が、葉っぱをお皿にしてその上にプリンを作って乗せました。「あっ!」と子ども。子どもの心が動きます。自分もやりたいと。心(頭)が動くと身体が動きます。お客様たちの心も動き、それぞれが大きない形の葉っぱを見つけてきました。プリンアラモードはさっきよりおいしそうになってレストランのテーブルに並びました。店主もお客様も、それぞれ自らの工夫に満足して「ごちそうさま」。元気になった鬼ごっこ選手たちはまた走り出しました。

もし保育者が「葉っぱをお皿にしましょう」と言ってしまったらどうでしょう。幼児の頭は「はいはい」と受け身です。

幼児の教育はいつとはなしにいつでもしているところに特徴があります。日常の随所に「はいはい」をきざみ込んでしまったら幼児教育の失敗です。「先生に言われたからやる」という受け身の生活が、いつの間にか一人ひとりの子どもを他律に導いてしまうでしょう。

言葉で言ってやらせた方が教育的に見えるかもしれませんが、子どもの中身を深く見つめてほしいです。

幼稚園のお花畑では蝶たちが蜜を飲もうと飛びまわっています。蝶を取り逃した子どもが二人、何か言い合っています。「あれはガだからいいんだよ」「あれはチョウ。かわいかったからつかまえたかったなあ」「ガでしょ」「チョウだよ」「じゃあ”ガチョウ”っていうことにしよう」「え〜!まあいいか」

折り合う二人。セセリチョウだと思われますが、確かにガにも似ています。保育者が教えてしまえば、二人の頭は「ああはいはい」と受け身。この時は「ガチョウ」でも近いうちにまたセセリチョウとの出会いがあり、自分たちの力で観察したり調べたりするでしょう。遠くに出かけなくても自然幼稚園はいつでもここにあるのですから。

私たちは自分の頭で考える人間を育てているのです。ついつい知識を教えたくなるのが大人ですが、その”ついつい”が積み重なってしまっているかもしれません。あまり深く考えずに何でも教えてしまったら持って生まれた自分の力の上に知識という重しがのしかかって、自分の力は下積みです。持って生まれたはずの自分の力を使えない人間、ただただ与えられた知識を取り出して生活する人間を育ててしまいます。

休日の街でこんなことがありました。お洋服やかわいい雑貨が並んでいるお店に、塾帰りと思われる幼児と母親が立寄りました。たくさん並んだ商品をお子さんが次々に触って動かしたりしているのですが、お母様は何もおっしゃいません。きれいにたたんだりセンス良く並べてあったのですが、お店のかたは何も言えません。4、5歳ほどの幼児に塾でお勉強をさせている教育的なお母様が、売りものの商品をあれこれ触ってもなぜ何もおっしゃらないのかと驚きました。

知識を教えることが教育で、していいことよくないことの判断は教育ではないのでしょうか。そういういつもの日常がお子さんの感じ考える力を育てるのに。お子さんが商品を触り出したその時に言わなければ。「解らないのね、きれいねって見るだけよ」と叱るのではなく親切に。叱ってしまったら、「ああ叱られちゃった」だけで、幼児の心(頭)は動きません。幼児の教育は特別なお勉強の中にあるものではなく、いつもの日常の中にあるのです。

「さあこれからお勉強しましょう」では幼児の頭は育ちません。自ら感じ、考え、判断する頭の働きは得られません。いつもの日常生活の中、感じ考え判断するお母様や保育者の心(頭)と身体から学んでいくのです。幼児にとって日常生活こそが学びなのですが、特別に与えられる知識こそ教育と思っている大人は世の中に大勢います。目に見えること、外側のことしかわからないのでしょう。

そういう大人は、教えましょうと思って子どもの世界に今必要のないことをたくさん言います。小さい幼児たちは夢の世界に住んでいますから、自分が作った大切な電車にごはんを食べさせたりもします。電車くんも自分と同じように生活しているのです。それを電車は電気で走るんだからごはんは食べないでしょ、などとつまらない現実を教えてしまうのです。自分の頭で考えて、一生懸命働く電車くんのためにごはんを作ったり、夜は車庫で寝かせたりしているのに。そういうかたのお子さんは機嫌が悪く、言葉を聞き流すクセがついていたりします。あなたのお子さんはどうですか。

感じる”から次に考える”ことができ、”考える”から次に”判断する”ことができるようになるのですが、うわべの知識ばかり幼児の頭に詰め込んでいたら、感じる力のない、自分の頭で考えない人間ができあがります。

そんなふうに育った人が大学生になり、幼稚園教諭になるための教育実習に、いろいろな大学からやってきます。多くの学生が自ら感じず考えず判断せず、教科書のどこかに書いてあったようなことを取り出してそこに今見たことをあてはめようとします。

そういう大学生に、自分の中身をかき立ててほしい、揺さぶってほしいとお伝えしても、何のことか、きっとわからないのでしょう。教育は幼児時代が肝腎。いっとはなしにいつでもしているものなのです。

高階幼稚園卒園中学1年生が社会体験にやってきますが、大学4年生たちよりずっと優秀です。自分の頭で考え行動する人間に育っています。中学生一人ひとりから母と子の日常が伝わってきて、感動します。

大人が一生懸命になろうとすると骨が折れますが、子どもは自然に一生懸命になります。子どもの一生懸命をじゃまするのは、真実性のない大人の態度や多過ぎる言葉。教育だと勘違いしているうわべだけのいろいろです。一生懸命な子どもにしよう、自ら学ぶ意欲的な子どもにしようと考えるなら、大人が根気よく一生懸命生活することです。お子さんに一生懸命を説くことでなく、手をかけ心をかけ、親切に惜しみなくお世話をすることです。高階幼稚園の保育者たちは皆そうしています。

世の大人たちが”幼児の世界”を本気で学ぶ時代が来たら、自分の頭で考え、行動する人間が大勢育っていくに違いない。そう思いながら夢中で保育を続け、50年程経ちましたが、世の中の大人の多くが子どもから学ぶことは一切しません。自分の頭で考える一生懸命な人間の、なんと少ないことでしょう。

どんなご縁があったのか、この幼稚園で”お互いどうし”になったお母様がたには、研究し続けた「子どもの世界と保育技術」をお伝えしたい。人生の出発点である短い幼児時代と、短い幼児の母時代の充実のために。

母と子の太い絆のために———。青梅雨を晴ればれしく生きるためにそう思う6月、万緑の幼稚園です———。