長い夏に耐え、咲き誇っていたユーパトリウム(西洋フジバカマ)や萩の花。ススキや秋明菊やホトトギスがその役を引き継いで、幼稚園のお庭を彩っています。そろそろビオラやパンジーを、とお花屋さんに出かけたところ、卒園母様Uさんと出会いました。
Uさんは在園中、園芸サークルでお花好き。お子さん二人と花苗を選んでいらっしゃる所にバッタリ、ということもあったのですが、この日はお一人。「母より友達の方がいいようで、二人ともつき合ってくれなくなりました。本当にあっという間なんですね」。と花選びよりお子さんの成長ぶりの話の方に花が咲きました。Uさんももう小さい子どものお母様ではなくなったのです。あっという間に。
「二人とも意欲的でこうしようと思ったことに熱心に真剣に取り組んで本当に楽しそうです。自分で考えてどんどん行動して、中身は進化していますが、基本はあの頃と変わりません。一生使える力が、幼稚園のたったの3年間で身についたなんて高階幼稚園にすごいですよね」幼稚園という所は目に見えない力を培うところなのです。
目に見えない力を身につけることができるのは、幼児の時代だけ。世のお母様がたの多くは、目に見える力を少しでも早くと、字や数字や英語を教えたい。その方が頭が、脳が早く発達するから。そう思い込んでいらっしゃるようですが、幼児の頃から、小学校を小さくしたような受け身の一斉保育を3年間されたらどうなるか、ご自分の頭で考えてほしいと思います。
自ら感じ、こうしたい、こうしょうと考えたことを形にする生活と、言われたことを言われたからする生活。それを3年間、続けるわけです。どちらの生活が幼児の心(脳)・身を育てるでしょう。幼稚園でお勉強をさせておけば、机に着く練習もできるし、入学した時楽だろうから、という世間のマチガッタ風潮にも早く(もう早くはないけれど)気づいてほしいです。
動物も子ども時代は遊びます。遊んで学ぶのです。人間も動物。幼児時代は遊ばなければなりません。幼児にとって遊ぶことは生きることと同じなのですから。
が、ただメチャクチャに遊べばいいというわけではありません。環境を整え、幼児の遊びたい気持ちを満足させながら、幼児期に使っておかなければならない力を大いに使わせるのです。充実へ向かって、よく練られた指導計画が一人ひとりの遊びの生活の中に存在しなければ、感じ考え判断する力は育ちません。旺盛な意欲も意志も、ただただメチャクチャに、あるいは惰性で遊んでいたら、身につけることはできません。
一斉のお勉強の合間の休み時間にだって自由に遊ぶ時間はあるとおっしゃるかたもあるでしょうが、発散するためのふざけ遊びが主なのでは。短い休み時間に、自ら考え心を集中させ打ち込んで遊ぶことはできません。切れぞれの短時間にじっくり遊ぶ充実など得られません。先生がたも自由な時間の遊びを豊かに、などと思っていません。だから一斉保育の子どもたちは自ら、遊ぶことを諦めてしまっているのです。
高階幼稚園は、子どもさながらの遊びの生活を崩さず、その中に教育を入れていく、自由な遊びを中心とする保育教育)です。主体的に自ら感じ考え判断し、お友達とイメージを共有しながら思いを形にする遊びの生活。保育者は一人ひとりの思いを支え、意欲を形にする手伝いをするのです。子どもたちの手になり足になり、一心同体のようになって。
小さい人たちは偶然から始まる遊びもあります。遊び始めたものの、まだ思いも淡いので、あっさりと遊びが終わってしまいます。担任はお子さんたちと共に同じ時を生きていますから、お互い同士心のやり取りができます。お子さん一人ひとりの興味に応じてイメージを引き出しながら一緒に遊んでいると、おもしろそうだからとお友達もやってきます。いつの間にかお友達同士が持っているお互いの力を使いながら、遊びがもっともっとおもしろくなっていきます。担任の代弁も生き、だんだんとイメージの共有もできるようになっていくのです。
そういう生活を積み重ね、大きい組後半にもなると遊びが広く深くなっていきます。目的意識もはっきりしてきますし、お友達同士の関係もしっかりしたものになっていますから、担任はだんだんと子どもの輪の外側から遊びを支える存在に。小さい頃と援助の仕方が変わってきますが、生活のいろいろな場面で手をかけることには、変わりありません。小さい頃とはお世話の中身は変わっていきますが、手をかけるとは心をかけること。精神的な指導だと考えています。
心をかけてもらっている子どもは、心が広く柔らかく建設的です。建設的な集団は、自ら感じ考え判断し、互いにアイディアを出し合いながら、思いを形にするためにイメージ豊かに遊び続けます。アイディアがもうそろそろ尽きる頃、担ほがヒントになる何かを持って行ったり、自ら遊びに流れ込み、子どもたちの意欲を支えるのです。
例えば野球の遊び。山の組で1学期から続いています。運動会ではいつものようではなく、棒の先にボールをくっつけて行いました。ボールがどこかへ飛んでいっちゃうと、運動会の時間内に終わらないからです。AKんは運動会の時、今日のは野球ごっこだね」と言っていましたが、いつものは本当の野球で運動会ではこういう形式にしたけれど、それでもおもしろいからいい、と考え判断しているのです。いつもの遊びの生活がしっかりあって、そこでは本当の野球に近づけるための創意工夫ができるから、運動会ではあれで満足なのでしょう。
バットやボールやグローブ、ユニホームやヘルメットを作り、思いを形にします。互いのチーム名や得点表。三振なしファウルなし、フォアボールなし。小さい人は一塁と三塁をマチガエてもいい。などなど工夫し、自分たちの特別ルールを作りながら、こんなに長くおもしろさが続いているのです。
例えばもし、と考えます。野球に詳しいお父さん。野球は知っているけれど幼児の発達については無頓着な。そういう存在が幼稚園にあったならどうだったろうと。きっと自らこんなに工夫したり、おもしろくしようという努力はなかっただろうと思います。最初の頃はあの太いバットにさえボールが全く当たらなかったり、ピッチャーのものすごい失投があったり、がっかりがっかりがっかりの連続でした。担任の支えもあったけれど、疲れず諦めず根気強く、よく続いたと思います。
もしお父さん的な存在の大人に初めからルールや形を教えられていたら、子どもたちの頭はただハイハイと受け身になってしまい自分たちで作る野球ごっこはあっという間に消滅していたことでしょう。
小学校がお休みの時、幼稚園OB小学生たちがやってきて自分たちも遊びながら小さい選手たちにちょうど良い指導をしてくれましたが、卒園児たちの心身には、高階幼稚園の教育が地下水のように流れているのだなあと、感動したことでした。
一斉保育の幼稚園の教諭たちは、平たく言うと”野球に詳しいお父さん”的な立場なのでしょう。子どもたちの頭を受け身にしてしまっていることに気づかないのか気づいてはいても園の方針、母たちの要望に仕方なく···ということなのかもしれません。が、幼稚園の教育要領は教師からの一方的な教育を否定しているのです。
以前、近くにお引越しということでお子さん連れのご見学がありました。お子さんにはここの良さがわかるので、今からここに来たい、となかなか帰ろうとしません。親御さんは「今までキッチリとした幼稚園に行っていたのでやはりそういう所が」と一斉保育の幼稚園をお選びになりました。キッチリ見えるのは外側のこと。十把ひとからげにしていたら一人ひとりはキッチリと育てられません。小さな幼児大勢を一緒に集め、どうやって一人ひとりの中身を育てているのかいないのか、ちょっと考えればわかると思うのですが。
国立の幼稚園はもちろん自由な遊びを中心とした保育(教育)を続けています。研究を重ね、幼児教育者たちに広<本来の幼児教育を伝える役割を担っているのです。
このごろ特に要求されるのが長時間の預かり保育。自分は働きたいから子どもは保育所が子ども園へ、というお母様たち。今はそういう時代だから、諸外国もそうだから、みんなそうしているから、と安易に考えていらっしゃるようです。
しかし、生後1年ほどで母と子が長時間離ればなれなど、生物としていいわけはありません。先進国といわれる諸外国の少年犯罪や精神疾患などにも目を向けてみたらどうでしょう。ご自分の頭で考えてほしいです。ご自身の人生の時間をどう使うか。子育てを何年かしっかり学び、その上で仕事に復帰なさったらどんなにいい仕事ができるでしょう。子どもを育てることは人間の基本を学び、ご自身も育つことですもの。我が子との絆は乳幼児期のお世話で太くなり、絆が太くなるほど子育ては楽になるのですよ。一生の絆が短い幼児期に生まれ育つのです。目には見えないけれどしっかりと。
幼稚園の担任と幼児の間にも絆は育ちます。
“さあこれから○○をしましょう”ではなく”いつとはなしにいつでもしているのが真の幼児教育です。森の組のお部屋でのこと。自分で作った電車を一生けんめい走らせているBちゃん。特急だからドゥドゥン!ドゥドゥン!とついつい大声になります。線路付近のお宅に住んでいるCちゃんは赤ちゃんを寝かしつけるのに困っています。電車が近づくと赤ちゃんが泣き出しそうです。
このあたりで担任が「すみませんが」と特急電車さんに話しかけます。「もう少し静かに走っていただけないでしょうか」。特急電車の持ち主Bちゃんは「うん、Cちゃんの近くにきたら静かに走るよ」。特急電車はCちゃん宅に近づくと音とスピードをゆるめます。ああわかっているのだ。自分のことだけでなくお友達の気持ちにも気づくようになったのだと、嬉しさがこみ上げる担任。子どもたちと共に生きていると、毎日たくさんの感動が心と身体を動かします。
けれど月曜日。休日の次の日に決まって不機嫌になるお子さんも。ボンヤリしたり、遊べず担任にしがみついていたり、お友達の気持ちを汲めず自分を押し通し、思いが通らないと相手の積み木をこわしたり…。
そういうお子さんも、火曜日、水曜日と日が経つにつれ、だんだん自分の持っている力を良い方向に使うようになっていくのですが、また月曜日はやってきます。休日にお家でパパやママに甘えて過ごした昔の月曜日の良さが懐かしいです。
今の親御さんはお子さんのためもあるのでしょうが、お若いご自分たちもお出かけしたいでしょうから、お子さんの方にお疲れが残るのでしょう。また、大人たちは良かれと思いさせていることが、お子さんのお歳に合わないということもあるのかもしれません。それがきゅうくつだったり重荷だったりするから、幼稚園で不満を発散させるのでしょうか。
“月曜日の不安定”をなんとかしようと、担任の時間はそのお子さんたちの安定のために費やされます。お互い同士が教育環境なのですから○ちゃんたちを機嫌の悪いままにしておくことはできません。小さい組の子どもたちに柔らかく広い心を育てておかないと、その上の教育が積み重なりませんもの。でもその間創造性を培うための教育はできない、ということになります。
それで、お母様がたに月曜日の様子をお伝えすると、「子どものためと思って休日には決まって出かけていた」「ああ、そういえば、お休みの日はパパに任せきりだった!」「下の子のお世話ばかりで上の子には母が足りなかったのだ…」など気づいてくださるお母様がた。高階幼稚園のお母様がたは建設的な大人たちなのです。
建設的の反対は破壊的。そういう子ども集団の方が世の中には多いようです。保育所の先生はこう言います。「母親たちには何も言えない。怒らないでねとか優しくねとか言うと、子どもたちはもっと怒られてしまうから」と。「親も子どもと同じ、と思ってやり取りしている」。忙しい母たちは仕事でオン。帰宅してからはオフ。オフの時のことをあれこれ言われたくないのでしょう。で、「保育所は手をかけてもらえない不機嫌な子どもたちの集団。子どもを伸ばすことは考えていない」。とのこと。
高階幼稚園は子ども一人ひとりを伸ばし、感じ考え判断して行動する、旺盛な意欲と意志を持った子どもに育て、小学校へ送り出しています。が、昨今小学校の先生たちの悲鳴が幼稚園まで聞こえてくるようになりました。「目的がわからない、教師の話を聞かない、したいことはない、したくないこともない」そういう子どもがクラスに大勢いるというのです。
自分は今まで大人たちに何をしたいのかその思いを聞いてもらっていないし、自分のしたいことを全力でしたこともない。もともと自分に思いがあることさえ、大人たちに引き出してもらっていないし、思いを形にできたこともない。建設的な遊びの集団に身を置いて、目的に向かって友達や先生と高みを目指した経験もないし、手をかけ心をかけてもらった満足感もないのかもしれないのですから。
子どもたちの問題ではないのです。大人たちの幼児時代への興味のなさ、小手先のことばかりの保育をしているその無頓着さ、自分の手で育てようという気概のなさが、こういう小学生を育ててしまったのです。感じ考え判断する力、旺盛な意欲や意志。そういった目に見えない力が育つのは幼児期なのですから。
人生の基本は幼児期なのです。多くの幼児教育者はその年齢としての力をしっかり使って育った子どもの姿がどういうものかわかっていないのだと思わざるを得ません。本気で子どもを育てなくては!世の中の母たちよ!幼児教育者たちよ!と大きな声で呼びかけたい。大勢の中の心あるかたたちがわずかに振り向いてくれるだけかもしれないけれど――ー。
幼稚園のお庭に秋がきて、あちこちが赤や黄色に染まり始めました。夏に疲れた花壇の宿根草たちのお世話をしたり、新しい花たちを招き入れたり、お庭仕事も忙しくなります。子どもたちが毎日蝶を追いかけたお花畑の秋から冬への環境も整えなくてはなりません。子どもたちが大好きな自然幼稚園の美しさを保ち続けなければ、人生の基本をこの幼稚園で生きる子どもたちの、科学と情操のために。そう思う11月、深まる秋の幼稚園です。