園だより(令和6年度1月)

2025年。この小さな幼稚園も新玉の年を迎えました。かけ足で走ってきた2024年さんからバトンを受け取った2025年さんには急がず走らずゆっくりと、とお願いしたいです。年長さんたちの幼児時代が少しでも長く続きますように、と祈らずにはいられません。

新しい年を迎えるたび、必ず繙く(ひもとく)保育の書があります。日本の幼児教育の父、倉橋惣三先生の『育ての心』です。”育てる”は辞書にこう書いてあります。「手間をかけて生物の成長を導き助ける。また成長させて成熟の段階にまで至らせる」。「“手間”などという名詞は昨今の風潮の中、使用を避けるべきめんどうくさい言葉なのかもしれませんが。

『育ての心』の「子どもたちの中にいて」に「まめやかさ」という文章があります。

———「まめやかさ」———

生える力、伸びる力。それに、驚く心がなくては、自然も子どもも、ほんとうには分からない。が、驚きだけでは、詩と研究が生まれても、教育にはならない。教育者は詠嘆者たるだけではないからである。子どもの力に絶えず驚きながら、その詠嘆のひまもすきもない程に、こまかい心づかいに忙しいのが教育であり教育者である。

教育のめざすところは大きい。教育者の希望は遠い。しかし、その日々の仕事はこまごまと極めて手近なことである。ちょうど園芸の目的は花にあり果実にありながら、園丁の仕事があの通りなのと同じである。よき園芸家とは、まめな人である。実際に行き届く人である。休む間もない気くばりに、目と手と足の絶えず働いている人である。やがて咲かせたい花のことも熟させたい果実のことも、手をあけて思う間もない程に、目の前の世話に忠実な人である。

驚く心がそのまますぐ実際のまめやかさになる人、そういう人が実際教育者である。———

『育ての心』は理論に追われて書いたものではなく、子どもたちや母たちと接しながら、その実際と実践のままに即して書いた実感の書である。著者自身いつの場合でも、子どもたちや母たちから学び続けているのである。と倉橋先生はその序文に書いておられます。

そして補遺(あとから補うこと)もあります。———生きているものが、われあることによって一層生きてくれる。しかもわれは常に相手の生活の下に潜み内にかくれて、その意図と努力を表立てない。自らをあらわにしないで、そっと他を生かす。これ人間最大の愉快である。———

本当にこのことこそが、私どもが常に達成や実現を心にかける、育てる者としての日々なのです。そしてお母様がたもきっとそうなのでは経たのと思いたいのです。”愉快”とは楽しくて心地よいこと、ですが、楽しい”苦”がついて苦楽しい(くるたのしい)、とおっしゃりたいかもしれません。私ども保育者たちもそうなのです。子育ては人間の根本を培う仕事ですから、簡単なことではありません。だからこそ”苦”がついて苦楽しいのですが、”苦楽しい”これこそが”人間最大の愉快”だと実感しています。

不思議なことに、育てる者の日々は、その人にまめやかさを授けてくれます。”教育のめざすところは大きいけれど、その日々の仕事はこまごまと極めて手近なこと”です。幼児の教育は日常にあるのです。日常生活の中、いつとはなしにいつでもしているのが幼児の教育です。

それなのに、幼児教育の世界がわざとらしい”早期教育競争”のようになるなんて。あるいは”預かり保育競争”をして、母と子の日常生活の時間を失わせる日が来るなんて。家庭こそが人間的教育、心持ちの教育をする所。家庭こそが幼児教育の本質的な場所なのだと、倉橋先生はおっしゃるに違いありません。幼稚園は家庭の延長なのですよと。

幼稚園の日常は家庭の日常の上にあるのです。母と子がまめまめしく心と身体を動かして、まるで一心同体のように共感し合いながら日常を楽しめたら、どんなにいいでしょう。

けれど、早期教育の真っただ中に育った今の親世代は、幼児教育といえば知識を教え込むこと、と思い込んでいらっしゃるのかもしれません。もしかすると、親御さん自身、幼児時代の遊びの経験がなく、我が子と一緒に考え工夫して遊んだり、一緒に家事をすることより、知識を教えた方が楽だし時間を潰せるから、ということもあるかもしれませんが、ご家庭で、幼児としての時間や発達を軽んじられている3歳や4歳のお子さんは、幼稚園では発散しなければなりません。いわゆる教育的なご一家のお子さんは、家で父や母の評価に応えなければならないのですから、”不機嫌”という病をわずらっています。

幼稚園はもうすぐ70歳を迎えますが、本当にいろいろな、いわゆる教育症候群(筆者造語)のお子さんを、必死になって保育してきました。機嫌が悪く気の毒なお子さんたちは、甘えたり、泣いたり、怒ったり、ぶったり、蹴ったり、噛みついたり、身体中に溜まった不安や不満を、保育者やお友達にぶつけます。根気強く一心不乱に保育して、お子さんはなんとか一日の満足を得、落ち着いた心持ちになって帰宅するのですが、翌日もまた昨日の朝と同じに不満をかかえて登園し、幼稚園で発散。毎日毎日その繰り返し。という場合、お子さんはその年齢としての充実や成長は望めません。

言われたことを覚えたり、言い聞かされたりの受動の生活で得た知識が、お子さんの持って生まれた力の上に乗りかかって、自分の力は下積みに。お子さんは自ら感じ、考えることができなくなってしまっているのです。森の組さんは感情の使い方を学ぶ大切な時代なのに、まるで感じる心の上にギュッとフタをされているかのようです。

言われたことや決まりのあることには取り組むのですが、自分の中から湧いて出る遊びの意欲がありません。知識は自信につながると勘違いしている大人が多いですが、他律の知識は使えません。自分自身が獲得したものではないから、自分自身に対する自信にはならないのです。小さな幼児ですが、自信に満ちた幼児とそうでない幼児があり、その分かれるところは、お母様にかわいがられているという実感です。本物の自信は何よりも勝る意欲と探究心の原点になるのです。

他律的な生活を続けて大きくなり、5歳や6歳になってしまった場合、持って生まれた自分の力は使えず、知っている知識を取り出して、その中だけで遊ぶ、というか聞きかじりの知識を披露する。そういう子どもに育ちます。お友達がアイデアを出して遊びの提案をしても、ただ「やればいい」という他律的な子どもに。お友達と一緒に目的へ向かって考えたり、工夫したりしません。できないのです。小学校へ行くと、そういう子どもが大勢いるそうですが。

「やりたいことはない。やりたくないこともない。意欲はない。目的がわからない。ただ言われたことをすればいい」という他律的人間の土台が、幼児期に作られてしまうのです。ものごころついた頃からずっと、人間の基本となるはずの”幼児としての充実”を諦めた生活が積み重なっているのですから。

持って生まれた自分の力を大いに使い、自ら感じ考え判断しながら一生けんめい遊ぶ、充実した幼児期を過ごさせてやりたいと、親御さんだってきっと望んでいるはず。いわゆる教育的な親御さんも、本当は幼児の育て方がわからず、ご自身がされてきたようになさっているのかもしれません。まだご自身のご両親と相互依存のような状態にあるのかもしれません。我が子を育てながら、ご自身の育ってきた来歴についても考える、まさに教育はお互いなのです。

お子さんは、かわいがればかわいがるほどよく育ちます。ご家庭の雰囲気が柔らかくなれば、お子さんはその空気で育つのです。子どもを取り巻く大人たちが変われば、お子さんの心持ちも変わります。意地を張り、不満をつのらせていたお子さんの心も柔らかくなり、機嫌の良い子どもに。褒めることが多くなれば、叱ることがなくなります。

前述のように、森の組は感情の使い方を学ぶ大切なお歳。その肝腎は”機嫌が良い”ということ。お友達のいろいろを受け入れる柔らかく広い心は、機嫌が良いからこそ育まれるのです。そしてこれが人生の基本になります。機嫌が悪い大人は、3歳の自分を引きずっているのです。

お母様の肝腎はかわいがること。お母様のあたたかさを味わわせること。お子さんの中に貯えられた安心感は、地下水のようにお子さんの一生を潤すのですから。———

我が子を知的に育てたい。子の親になれば当然の思いでしょう。そう思ったら、知識習得より、創造性を培うことです。新しい知識を生み出す思考力の方が重要だからです。幼児、あるいは育てる者たちにとっては、ネットの情報や本の知識より、日常生活の中に多くの新しい、おもしろいことがひそんでいる、と言っても言い過ぎではないと思います。それを引き出すのが”考える”ということ。自律的に。情報や知識は他律です。衆知の借りものなのですから。日々を誠実に丁寧に生きていると(“まめやか”は”忠実やか”と書く。こまやかに心がこもって誠実なさま)、日常には新しい発見がたくさんあります。それが子どものおもしろい遊びに展開していったりするのです。

子どももそうですが、大人も、感じ考える力を磨いたらいいと思います。お子さんと一緒になって、同じ方向を向いて。”教えましょう”という生活は、お子さんの頭を受け身にし、他律的に。多くの言葉は騒音として聞き流す癖をつけてしまいます。が、大人も同じ方向を向いて感じ考える生活は、お子さんに考える余地を与えることになるのです。”子どもの遊びの生活を壊さないで、その中に教育を入れていく”ということの始まりです。

幼稚園では、子どもと保育者は通い合い、響き合う関係です。保育者たちは子どもたちが遊びのきっかけをつかみ、熱中できるように環境や材料を用意しています。子どもたちが遊びに熱中しているときは、そっと傍から見守りますが、遊びが停滞し始め、子どもたちのアイデアがもう出なくなった頃を見計らって、その遊びの中に流れ込み、手を貸すのです。行動のモデルをしたり、言葉をかけながら遊びを立て直し、今あるよりも子どもが一歩前へ進めるよう援助します。

そして時には教え導くこともあります。幼児教育の世界では「教導」と言っていますが、それは一番最後に、しかも控えめにされるべきことなのです。

子どもは、大人から見たらつまらないように見えることもします。年中(4歳児)の男児が砂場に大きな穴を掘り、その中に水を満たして大小の小石を落とし、しぶきと音と波形に熱中しています。水が減るとまた汲みに行き、満々にしてまた繰り返します。大人から見たらつい、もっと高次な活動に導きたくなったり、「石は沈むの」と言いたくなります。が、自ら発見しようとしている子どもの自発性をぶち壊してしまうかもしれません。真理を教えるのには早すぎるのです。そればかりでなく、自分の力でものごとを考えるということに対して、自信を持てなくさせてしまうのです。

こういったことが重なると、自分でものごとを考えられず、大人が与えてくれる「正答」がないと行動できないような他律性を身につけてしまいかねません。幼児の教育は他律でなく自律的な想像力の基礎を培うことにあるのです。

けれど、この子どもの集中が途絶え始め、もっと大きな石を見つけ、水に放り込み始めたらどうでしょう。石の大きさによっては、思考と反対の発散になりかねません。しぶきがバシャン!と周囲の子どもにもかかってしまっています。子どもたちの様子や心の動きを感じ、大急ぎで「あらあら!」とかかったしぶきを拭き、保育者はその遊びに流れ込み、自分も子どもになって、斜面を作り、石を転がしてみたりします。ただ放り込むのではなく転がして落とすのはどうか、おもしろいのではないかと。停滞していた思考が復活し、また発見と思考を子ども自らの力で始めます。周囲の子どもたちも引き込まれ、自分たちもとアイデアを出したり、遊びに加わったりし、それぞれ考えたり工夫したりしながら子どもどうしの遊びが広がります。

子ども中心の保育は、子どもの中から湧いてきたものを大切にする保育のことです。けれど、それを極端に認めると、子どものなすがまま放任してしまうことになりかねません。のびのびと言うけれど、この一線を越せば放任に、これより前に言えば阻止したことになる線があります。子どもが熱中して遊びに取り組んでいるか。前よりも進歩しているか。これを見極めなければ。

また、自分のことばかりでなく、周囲のお友達のことも考え、心を配ることができるようにするため、保育者は行動で気づかせます。自ら感じ考えるように。小さい時に「あらあら」を機会を捉え適宜(てきぎ)くり返すことで、次第にお友達への配慮が身につき、大きくなれば、しっかりとした建設的な集団になるのです。

これもご家庭で培った柔らかい心があればこそ、なのです。不安や不満のお子さんはいつまでたっても自分のことばかり。お友達への広い心は、行ったり来たりでなかなか形成されません。お友達との遊びで充実するのは、とても難しいこと。家庭の日常を味わえず不安・不満のお子さんたちを預かる保育所の先生がたは、昨日より今日、今日より明日、の進歩などとうに諦めているとのことですが、幼稚園はそうはいきません。子どもを伸ばさなければ。それが私ども幼稚園教諭の仕事です。

幼児教育の世界の「教導」は控え目に、の具体例をお話しします。4歳児女児が、ユニコーンの人形を作りたいから描いて、と言ってきました。立体にして立たせたいのです。馬みたいだけど馬じゃなくて、たてがみがなくて角があって、不思議な力があると言います。

「羽がある」というのを聞いて、担任は「ああペガサス?こういうの?」と小さな紙片にダミーを描くのですが、「馬じゃないの」と女児。「キリンみたいなの?」と角を描くと「角は2本じゃないの」「1本…、おもしろいわね、こんなかな?」と担任は誠実に耳を傾け、子どものイメージを大事に聞きとっています。ユニコーンは漫画のユニコ(手塚治虫作品に登場するユニコーン)だったため、女児の頭の中のユニコーンの像とは一致しなかったかもしれませんが、長いやり取りの末、一応解決を得られました。

担任は2枚折りの厚紙に描いたユニコーンにわざと羽を描き入れず、女児に「羽、あとでつける?」と聞きました。けれど女児は「いい」と言って先に羽を描き入れる方を選択したのです。すると担任は、それ以上言わず、いさぎよく提案を引っ込めたのでした。

大人はたいてい、「あとから羽をつけると、本当の羽みたいにヒラヒラ動いておもしろい」などと言って無理強いするところですが、女児はまだこのヒントを受け入れるだけ成長していないのです。

ところが、もう1~2ヶ月もすると、この女児は手がヒラヒラ動くようなユニコーンを想像できるようになっていきました。

あせる必要はないのです。「教導」は用心深く控え目に、子どもの頭の中でどんなことが起こっているかを考えながらなされることなのです。この実例は要点のみですが、保育の神様といわれる堀合先生のクラスの記録です。私ども保育者たちは常に心に懸け、この事例を念頭に置きながら子どもたちと生活しているのです。

子どもたちは夢の世界に住んでいますから、実現不可能かと思われるようなことも考え出します。年中3学期に自分たちが暮らす地下室を作りたいと穴を掘り始めた3人の男児たち。年長になり、力をつけた男児たちがイメージを広げ、深めながらクラス中を巻き込んで、本当に生活できそうな半地下の、まるで古墳時代のような家を作ったことがありました。

地下へ降りる階段。キッチンやベッド、池や畑を作り、ミミズをえさに、幼稚園の池で釣った本物の金魚を泳がせます。おとなりの女児たちの地下室まで長いトンネルも掘ります。真っ暗なトンネルが開通して光が差し込んだ時の嬉しさ!みんな大喜びでした。

隅とはいえ、お庭に大穴を掘るのですから、担任との絆を基に達成できたのですが、危険なこともあるため子ども一人ひとりが神経を使い、手間をかけ根気強く、気に入ったものになるまでかなりの月日を要しました。子どもたちは自ら作った地下室で暮らすことができたのです。思いを形にしたのです。

率先男児は「ぼくの子どももここで遊べるように」と夢を語っていたのですが、お父様が見に来られ、「おまえ、幼稚園でずっと土方なんかやってたのか!」。もちろん他の遊びと並行して続けられていたのですが、心ない言葉は、子どもたちとお母様たちの心情を損ないました。お母様がたは泥だらけの服を毎日洗濯してくださり、お母様もがんばって応援してくださっていたのです。お父様も日常生活の中、幼児の心持ちを汲む練習をなさったらいいのではと思います。男性は女性から見ると、子どもらしい面を残しつつ大人になっているところが好ましいのですもの。その特性を生かし、我が子とかかわってほしいと思ったことでした。

お父様がたも昔は子どもでした。幼児時代がどんなに特別な時代でどんなに大切かを、わかってほしいと思います。幼児にとって、遊ぶことは生きることなのです。幼児について学ぶことは、人間の根本を学ぶこと。お仕事にもきっと役立つと思います。家庭はご夫婦で創る一番始めの社会なのですから。

自ら感じ考え、判断し、自分の力を精一杯使って一生けんめい遊んだ幼児時代の自分が、その人生を支えます。今は親になったお父様お母様も子ども時代の自分に支えられているのです。家庭による心持ちの教育。その延長にある幼稚園の創意に満ちた教育。家庭と幼稚園が心を通わせ、響き合いながら日常を誠実に、丁寧に生きていけたらいい。人間最大の愉快を味わいながら———。そう願う1月、初春の幼稚園です———。