
季節は春から晩春へ。まるで地球が速く回り出したように感じる日々です。子どもたちとの一日、その中で繰り広げられるいろいろに、誠実に、丁寧に、惜しみなく、尽くしていかなくてはと心底思います。あの時ああしておいてよかったと、心から思えるように。
幼稚園ではお子さんたちが帰った後、お部屋やお庭を行ったり来たりしながらあちこちを片付けます。ただお掃除するのではなく、さっきまで○ちゃんや○ちゃんが遊んでいた、そこここへ行くことに意味があるからです。そこへ行くと○ちゃんの遊びが、ここに来ると○ちゃんの様子が蘇ります。それぞれが自分の遊びと向き合い、持っている自分の力を使って遊んでいたか。保育者自身、あの時はああしたけれど、あれでよかったのだろうかと、いろいろを省みるのです。
それぞれの明日のための教材を用意したり、環境を整えたりして、今日に続く明日の保育に備えます。身体を動かしながらの方が、心も頭もよく働くのです。これらを記録したものが保育日誌であり、一人ひとりの指導計画です。
そして、保育者同士、少し穿った話し合いをします。こんなふうに。
———入園したばかりの森の組Aちゃんがすべり台で遊び始めたのね。○○先生も見ていたでしょ。Aちゃんは電車が好きだから、すべり始めと同時に「中央線!」と言ってみた。次にすべるのは山の組になったばかりの年中さん、Bちゃん。緑色の(パンダ柄の)園服なので「山の手線!」。ただすべるより、電車になって出発する方がおもしろいと思って。そうしたらAちゃん、「東武線!」次に「京浜東北線!」といろいろな電車になる。いいお顔なので「出発!」と声をあげると「進行!」とAちゃんが続きを言っておもしろくなってきた。そのうち思いついたらしく、おなかを下に寝そべる形(スーパーマンスタイル?)で発車し始めた。うーん、どうしよう、危ない、と思った。でも電車はこう長いから、そういうイメージがあってやっているのかもしれないと、様子を見ることにしたの。次もこのスタイルで発車。そのすぐ後に大きな山の手線が出発しそうになったので、「あらあら待って!」と止めて、「ああやっぱり危ないかな」とひとりごとを言ってみた。すると山の手線Bちゃんが考えたのか、頭を上に足を下にしたすべり(逆スーパーマン?)を見せてくれた。「おお、これなら危くない!」と、Bちゃんの親切とこれまでの保育を思い、胸が熱くなった。そうしたら今度は、何か感じたAちゃんがBちゃんの真似をしてすべったので、「ああ、その方がいい、いい真似をしてえらいわ」と褒めることができたのね。すべり台の電車ごっこはいろんな電車が行き来してしばらく続いて、AちゃんBちゃんは満足そうだった。
———(その時近くで行ったり来たりしていた保育者)私がその場にいたらきっと「頭からすべるのはいや」と言って止めていたかもしれない。このごろの3歳児は前と違って、「あっ!」と声をあげる程度では何も感じてくれないので、言葉で短く言うようにしている。きっとお母さんにいっぱい言われている。言葉を省略して聞くクセがついているのかもしれない。
———私も止めたかった。でも止められなかった。入園して間もないのに、「こうしよう」と思って始めたことをすぐさま止められたら、どんな気持ちになるだろうと、自分を出さなくなってしまうのではと、思ったから。
———Aちゃんでなく、進級児だったら止めていた?
———もちろん。「小さい人が真似しちゃうからいやよ」と言って。Bちゃんが違うやり方を偶然やってみせてくれたけれど、そうでなかったら、私が子どもになってやっていた。こうしたらどうかなと、「折り返し運転です!」と、すべっていたと思う。
———ブランコだって、ただ漕ぐだけじゃなく、子どもたちは小鳥やちょうちょやヒーローやジェット機になったりしながら遊んでいるものね。
———そう、どんな時もいいことを考えて遊んでほしい。小さい人(年少さん)たちは、イメージを引き出し、広げる時代。まだ淡いけれど「こうしたい」という思いはある。自分では形にできないから、その思いをはっきりとした形にあらわせるように、私たちが一心同体のようになって手助けするのね。
———ええ、そう。困難度を、今のその子どもの力で乗り越えられる程度にする、ということでしょう。それで子どもの手の代わりになって手伝いながら電車を作って、線路は積み木で、作るのを手伝い手伝いしながら、遊び始めるでしょう。お友だちも遊びに加わると、小さい人の場合、線路を譲り合ったりできずにとおせんぼしたり、ぶつかってしまったりするから、「あらあら大変」ととっさにトンネルを作ったり、線路を複線にしたり、二股にしたり、引き込み線を作ったりする。それも遊びの困難度を二人の力で乗り越えられる程度にしたということでしょう。それで、ぶつからなくなった時、「仲良く遊んでえらいわね」と褒めることができる。褒められていやな人はいないから、一生懸命遊ぼうという意欲がわく。そうすると遊びが持つ。それで様子を見ながら、こうするともっとおもしろいと信号を作って持って行ったり、駅にプラットホームを設置したりするわね。二人の持つ鉄道のイメージが引き出され、広がって、ごっこ遊びが仲良く、おもしろく続くように工夫するでしょ。先生も子どもになって、遊びに入ることがあるけれど、遊んであげることは子どもたちの自主性を損ってしまうからね、私たちはしない。”遊ぶ”ことと”遊んであげる”ことは違う。子どもたちにしてあげることは、遊んであげることでなく、”手をかけてあげる”ということでしょ。実際的にも精神的にも。
———そうね、何でも子どもにやらせましょうと、自分でやらせることがいいことだと思っていると、口でいっぱい言わなきゃならない。口で言われたことは身につかないのだけど。「手をかけることは心をかけることだ」ということがわからないから、”いわゆる教育的”に言葉で子どもを促すことを、多くの教育機関でやっている。だから母たちも同調してしまっているのでしょ。「耳がザルになっている」と外山先生(※)がおっしゃっていたけれど。叱らず優しくと心がけている母親ほど多くの言葉をかけてしまいがち。説明したり、理由を言ったり、良かれと思ってしていることが、言葉を省略して聞くザルの耳を育ててしまっているということに気づかないのね。だから入学した1年生が大変なことになっているらしい。
———そう、○○小学校では、1年生の1時間目は「授業」でなく「遊び」をすることになったんですって。落ちつかず、先生の話が聞けないから。手をかけるより口ばかりかけられて、不安・不満で育ってきた子どもばかりだもの。学校の先生がたがあまりに大変で、今の子どもたちは「遊び」が足りないからということになったらしいけれど、充実へ向かっての遊びでなく、ストレス発散のためのレクリエーション的なことでしょう。考えたり工夫したりしてそれぞれの「こうしたい」を形にすることはできないものね。
———そもそも「こうしたい」という思いがない子どもが多いらしい。なるべくしてなっていることに世の中は気づかないのかなあ。友達関係を築くという意味で「遊び」なのかと思ったりもするけれど、先生が一人ひとりの中身をよーく見ないと。子どもの遊びだからとなりゆきに任せて放任していると、弱肉強食のクラスになってしまうでしょうね。大人主導で幼児期を過ごしてきた子どもが大勢なのだからね。自ら感じ考え判断して、持って生まれた力を正しく使活を積み重ねてきてないのだから。
———「遊び」は子どもの世界でただ「遊び」と名づけられているけれど、大人にしてみたら「研究」や「仕事」と同等。余暇の娯楽などではない。子どもは遊ぶ前と遊んだ後と、違った人間になっているくらい遊ぶ。だから成長するのだなあと胸が熱くなる。こんなに感動する仕事はめったにないと思うわね———
私たち保育者がいつも心に留めていることは「無心で」です。難しいことですが子ども一人ひとりから学ぶために。「教育はお互い」なのです。
我が子に良い変化がないとお悩みのお母様は、もしかするとご自身の「主義」がじゃまをしているのかもしれません。ご自分を変えてみるとお子さんへのまなざしが変わります。お子さんはお母様の世界で生きていますから、お母様の自分に対する見方が変わると、もうそれだけで違う自分になったことになるのです。
我が子を評価し、もっと自主的であれと、「どうする?」「する?しない?」「どっち?」「どうして?」「なんで?○○だから?」。お子さん自身にさせようとして多くの言葉を駆使する母親をよく見かけます。お子さんはお母様からかけられるまなざしと言葉にうんざりし、言葉の省略を行っているのかもしれません。
「やらせましょう」を捨てて、やってあげる、手をかけてあげることです。「着る?着ない?」でなく、着せてあげてください。親切に。手をかけることは心をかけること。精神的な指導です。心をかけてもらっているお子さんは、意欲に満ち、いろいろなことに挑戦します。言われなくても。
「幼稚園は、4・5月の生活の上にそれからが積み重なっていく」と言われるほど大切な時期。お母様にとってはどんな4月でしたか。どんな5月にしたいですか。
幼児期と同じに、小さい子どもの母時代もあっという間に過ぎて行きます。人生の根っことなるこの時代を、子も母も思いきり生きてほしい。持って生まれた力を精一杯使いながら、悔いなく———。
そう願う5月、夏隣の幼稚園です———。
※外山滋比古:英文学者、文学博士、評論家、お茶の水女子大学名誉教授、元同大学附属幼稚園々長
この小さな高階幼稚園にたびたびお話しに来てくださっていた私たちの研究会の会長先生です。「思考の整理学」をはじめベストセラー多数で、知の巨人といわれています。
