
ご入園・ご進級おめでとうございます。春の自然幼稚園で子どもたちの生活が始まりました。
春の力、それは冷たい大地を和らげて芽を出させ、花を開かせる力。固まったものを解き、縮んだものを伸ばす力です。おのずからを育たせる春の化育(かいく)の働きそのままに、花そのものの身になること、一人ひとりの心の声を聞くことから保育が始まります。
高階幼稚園の生活は子どもが主人公。守られた空間の中、保育者たちは、子どもたちの始めたことを大事にする関わりを、日々重ねています。
子どもたちは保育者たちに心を受けとめられ認められているという安心感を基に、自分の遊びに向き合い、持って生まれた力を発揮していきます。
保育者たちは子ども一人ひとりが持っている遊びのイメージ、「こうしたい」という思いを汲み取り、見えないものを見えるように、はっきりとした形に表していくのです。
が、「一人ひとりが始めたことを大切にすること」は「子どもをわがままにする」という安易な考えが、未だ世間にはびこっているのはなぜなのでしょう。そういった考えが、小学校を小さくしたような一斉保育につながるのでしょうか。
ひとくくりに「子ども」と言いますが、小さな子どもである「幼児」の発達など、世間の大人は特別知ろうとしないのでしょう。昔は自分も幼児だったのです。今は育てる者としての大人になっているのに。
世間の需要と供給に基づき、幼児教育の世界でも「一人ひとり」より「十把ひとからげ」が台頭し、「長時間のお預かり」が始まって久しくなりました。人間の根本について深く考える数年間を大人たちは失ってしまったのです。幼児たちには何も言えません。
幼児を教育することを「保育」と言います。
教育というと小学校のように字や数字などを教えるのだろうと、またその方が高尚だと、幼児の発達に不案内な大人たちが勘違いするところです。が、そうではありません。子どもの思いに本気になって耳を傾ける保育者がいなかったら、保育は始まりません。そこからが保育なのです。子どもが始めたことを否定するところから保育は生まれてきません。
けれど、子どもが始めたことを大事にするためには、目の前の一人ひとりの見えない中身を見なければなりません。レントゲンやMRIのように。
幼児の中味は一人ひとり驚くほど違います。
積み木で作った工事場で遊んでいる森の組の小さいAちゃんは土砂を運ぶ車を思いつき、「こういうの作って」と身振りで伝えます。
「ああ、ブルドーザー?」
「うん、そう!」
保育者はAちゃんの手になって作ります。「ここ塗ってきてね」と、できそうなところはAちゃんに返しながら、立体のブルドーザーができあがります。
さっそくさっきの工事場で遊び始めるAちゃん。ブルドーザーは紙を丸めて作った土砂を運び、よく働いています。
BちゃんはAちゃんが好き。Aちゃんの真似をしたい。同じものを作りたい。「先生作って」とBちゃんもAちゃんのブルドーザーと似ているものを作り、満足して一緒に遊び始めます。
お庭から帰ってきたCちゃんはお友達には興味はなく、お友達の持っている車が欲しいのです。Cちゃんもお友達と遊んでほしい。そう思い、遊びのイメージを引き出そうと、保育者は子どもになってできあがったブルドーザーを工事場まで走らせます。
が、Cちゃんの心は動かずいつものように自分のコレクションの棚に並べに行きます。Cちゃんにはいろいろな知識はあるのですが、それらがCちゃん本来の力の上に重しとなって積み重なってしまっているのか、知識の披露ばかりで遊べません。持って生まれた力が使えないのです。
保育者は自分自身を味わわせることを中心に、手をかけ心をかけ、関わりを積み重ねていこうと考えています。
BちゃんもCちゃんもAちゃんの真似をしてブルドーザーを作ったのですが、その中味はまるきり違います。年少さんのお歳は夢の世界に住んでいる時代なのですが、入園前から現実の知識を詰め込まれてしまったためか、夢の世界で遊べないお子さんが気がかりです。3歳は3歳の、4歳は千歳の、5歳は5歳の、その時に使っておかなければならないカを使わせることが教育の根本。それが人間の基礎を作るのです。
子どもたちはそれぞれ、ご家庭のいろいろを背負って幼稚園にやってきます。お若いお母様は苦労することもことに多いでしょう。わかります。それにしてもDちゃんのがまんのなさをなんとかしなければなりません。
保育者は「作って!作って!」早く!早く!」のDちゃんをわざと後にまわし、「待っていてえらかったわね」と褒めます。「早く!」と言うのをうっかり忘れて待っていた時、「静かに待っていてえらかったわね」とその事を褒めます。
褒められていやな人はいませんから、Dちゃんの心はだんだん柔らかくなり、自分が!自分が!ではなくなっていくのです。
自分勝手なDちゃんにちょっと困っていたお友達も、先生に褒められるようになったDちゃんに安心し、広い心で受け入れ、お互い同士が育っていきます。
子どもさながらの遊びの生活をこわさず、その中に教育を入れていくのが幼稚園の本来の姿です。一斉に同じことをさせてしまうと、一人ひとりの心の発達は見えてきません。自由な遊びを中心とするこの保育のうわべだけ真似をした、ただ見守るだけの保育があるようですが、伸び伸びをうたっていても、その中に教育がなければ単なる放任保育です。
柔らかく広い心を育てたい。持って生まれた自分の力を使って遊んでほしい。その思いを胸に、森の組の保育者は心と身体、自らの持つ機能の精一杯を使って生活します。
小さい人たちには、していいこととよくないことがまだわかっていません。この一線を越せば放任になる。これより前に言えば阻止したことになる。ここまではいいけれど、その先は、というその時の判断がきわめて重要です。子どもが始めたことを否定するのではなく、良い方向へ遊びを向かわせるために。
できあがったお姫様人形を住まわせるお城を建てようと一生懸命なもちゃん。積み木を積んでいたら塔の部分がEちゃんの頭より高くなってしまい、倒れたり落ちたりしたら危ないと判断した保育者。「そうねえ、すてきだけどちょっと危ないかな」。この高さ位ならどうかと少し低くして、「じょうぶなお城にしましょう」と土台作りを手伝ったりします。
お姫様人形ができあがりつつあるFちゃんや、近くで遊んでいるお友達もこのやり取りを見て、聞いて、何か感じたり考えたりします。同じお部屋で違う遊びが繰り広げられていることの良さです。
かしいでしまっているFちゃんのお姫様人形がきちんと立つための支えの部分を作りに、保育者は製作台へ急がなければなりません。が、途中、GちゃんHちゃんのおままごとに散らばった絵本や食器を手早く整えます。ものの何秒かでできますから。踏んづけて平気な神経を育てたくありません。見えない教育です。無駄に行き来しない、ということも保育の肝腎なのです。Fちゃんのお姫様もまっすぐ立ち、満足したFちゃんはさっそく積み木のお城作りを手伝います。
さっきから砂場で熱中しているIちゃん・Jちゃん・Kちゃん。山を作ろうとして掘ったくぼみにジョーロで水を流し入れたら、山のふもとに池ができ、気を良くしています。山が崩れないよう、保育者も今しがた山肌を固める手伝いをしています。
山肌がなめらかになったため思いついたのか、小石を拾ってきて山のてっぺんから転がす遊びが始まります。石はポチャンと池の中へ。小さな飛沫をあげ、まるで生き物のように飛び込みます。
池の水が減ると、誰かが水を足し、遊びは続きます。
そのうち誰かが大きな石を拾ってきて転がし始め、バシャン!!すごい水しぶきです。保育室で製作を手伝いながら様子を見ていたた保育者は、「あらあら!」とタオルをつかんで飛び出します。Iちゃん・Jちゃん・Kちゃんはしぶきを浴び、近くでケーキをこしらえていた、Lちゃん・Mちゃんにまで水はねが。
「ごめんなさい、わざとしたんじゃないの、うっかりまちがっちゃったの」。保育者はL・Mちゃんの水をぬぐいながら謝ります。Iちゃんたちは何か感じている様子で、Lちゃん・Mちゃんの方を黙って見ています。Iちゃんたちも拭いてあげながら、保育者は「やってみたくなっちゃったのよね、でもこの石重いし、危ない」。言いながら大きな石はお庭の隅へ。
保育者が「あらあら!」と飛び出したので、周囲のお友達も様子を見守り、驚いたり安心したり。保育者が「またいいこと考えて遊びましょ」と池底に散らばった石を山の頂上に並べ始めると、「お山の駐車場みたいだね」と子どもたち。遊びのイメージが再び動き出します。
「ここまではいいけれど、ここから先は」は、小さい人たちとの日常生活に組み込まれていると言っても、言いすぎではありません。保育する者たち(お母様も)の判断力が、子どもたちの感じ、考え、判断する力を育てるのです。
「積み木は背より高くしてはいけない」(園によっては壁にここまでのテープが貼ってある)、「石は危ないから遊びに使ってはいけない」。などをお約束”にしておく、という保育もあるようですが、始めから阻止してしまったら、子どもたちの内面の力は働きません。子どもが自分で始めた遊びと向き合い、心も身体も精一杯使って繰り広げるこの生活は、その子どもの行動をはっきりと捉えることができるため、一人ひとりにとってかえって厳しいのです。”いつとはなしにいつでも教育している”のですから。
おすもうごっこにしても、よく見ていて、首に手がかかったら「お首はいやよ」。遊ぶこととふざけることの区別がつかない子どもに、「それ、おふざけっていうのよ、おふざけさんになっちゃうわよ」など端的に短く言います。クドクド言うと子どもの頭は受け身になってしまうからです。短い言葉の中に心を込めます。「どうして首はダメなのかな?」「おふざけさんになるのはいやだからやめよう」と自ら感じ考えてほしいのです。
「これこれこうだからよ」とお母様からたくさんの「説明」という”押さえ込みの技”をかけられ、自らの感じる力を使えなくなってしまっているお子さんが多いからです。小さい人たちには、言葉より行動で示す方が良い場合が多くあります。保育者たちの身体は言った時にはもう働いています。
子ども自ら始めたことに行き詰まりが見えてきた時も、保育者たちは動きます。電車を走らせ、駅を作り、今しがたまで遊びの勢いがあった子どもに、お客さんを作って持って行ったりします。心と身体が再び動き出し、イメージが引き出され、駅員さんも作りたくなります。
せっかくレジスターを作ったのに、お店のお客がとだえてしまったら、おままごとのお母さんやお姉さんにお買物を頼んだりします。「お金やカード、はだかで持ってると落としてしまうから」と、手早くおさいふを作ったりもします。おさいふを入れるバッグも作りたくなって、バッグを持ったら積み木の電車に乗ってお店やさんにおでかけするという設定をお友達同士で思いつき、乗り物好きのお友達も加わってリズミカルな遊びになり、電車の歌をうたったりも———。
日々、いろいろなことがありながらこうしてだんだん大きい組になっていきます。いつの間にか持って生まれた力を良い方向へ使えるようになり、お友達と遊びのイメージを共有しながら。保育者たちは手をかけ心をかけ、惜しみなくお世話をし、子どもたちを支えていくのです。
幼稚園の生活はあらゆることが渾然一体となって、子どもたちだけでなく、その母たち、保育者たちをも育てます。
春休み、小学校を卒業したお子さんたちが、お母様やお父様と一緒に幼稚園を訪れ、成長した姿を見せてくれました。大きく育ったお子さんと、もう小さい子どもの母ではなくなったお母様とのやり取りに、あの頃と変わらない安心安定の間柄を感じ、嬉しさを味わったひとときでした。
子どもは、かわいがればかわいがるほど良く育つのです。「中学校へ行ったらこういうことをしたい」と話す子どもたちに、津守真先生の言葉を思い出しました。
———「幼いときから、自ら選択をして遊ぶことを経験した子どもは、未来に自分が何事か成し得るとの希望と意志をもつだろう。また子どもが生きている独自の世界を尊重することは、創造的な社会のもとであり、また保育者の楽しみでもある」
恩師の堀合文先生も津先生もこうおっしゃっていました。
———「平和をつくる営みは、日々の保育そのものの中にある」
「世界中のお母さんと幼稚園の先生が本気になって子どもを育てたら、世の中に戦争はなくなる」
そういう気概を持って子どもたちと共に生きようと思う4月、春風の幼稚園です———。
