園だより(令和7年度3月)

行きつ戻りつ春がやってきました。寒さが和らいで虫たちが顔を出す啓(けい)蟄(ちつ)ももうすぐです。

園庭で出会ったカエルをパンサーと名づけ、毎日エサを与え、かわいがっていた、あの小さなお友達の目覚めもこの啓蟄でした。

育ての親の年長児たちが葉っぱのお布団にくるみ、冬眠させていたあの場所、冷たさの残る土の中から這い出てきた時の驚きと感動!

自然幼稚園の大きな教育力を実感したできごとでした。

きっと生きていると信じ、パンサーのお家はまた住めるように整えてあったのですが、このお家に戻すことを諦めました。自分たちの卒園が近づいていること、パンサーとの生活もあとわずかだということも、なんとなくですがわかったからです。

エサを食べなくなり動かなくなったとはいえ、生きているパンサーを土に埋めたあの時。 やっと再会できたのに、パンサーの生きる力を感じ、別れを決意してお庭に放したあの時。

子どもたちそれぞれの中に働いていたのは、心のエネルギーだった のだと、今にして思えます。

何かわからないけれど、何かを信じ、心を決め、覚悟を決め、行動したのです。卒園が近づく頃 ああ育ってきたと実感する場面が増えます。

何かができるできないという目に見えることよりも、子どもたちの中身の変化にと胸 を衝かれるのです。

教育はお互いです。お子さんたちだけでなく、お母様がたも成長なさり、心のエネルギーが使える新しい自分になられた のではないですか。

あの頃はこうでした。ご入園前にいらした時、靴を履かせてあげましょうと手を出した保育者に、「時間がかかっても自分でできますから」とおっしゃるお母様。早くお庭に出て遊びたいのがお子さんだろうと思うのですが、お母様は「一人でできる」ということが大切なのです。きっと靴に限らず、いろいろな場面で口で言って、あとは「見守る」を、基本的な指針となさっているのでしょう。子育て本に書いてある「見守る」ということをカン違いなさっているのかもしれません。

母の手を求めているのに自分を拒否するお母様へのうらみ(うらみというより不満と言った方が柔らかいかもしれませんが) を 心の奥底に持たせることのほうが、一人で靴が履けないことより あとに尾を引きます。

母と子の間柄が悪くなると、 互いに意地の張り合いになり、不機嫌な子どもに育ってしまいがちです。言葉で言い聞かせ、自分でやらせようとなさった ことが、結局自立行動を遅らせることになるのです。

お子さんの様子が気がかりで、入園後しばらくしてからお話させていただきました。幼児教育の肝腎は親切。手をかけることは心をかけること。親切に手をかけていると安心感が貯えられ、自分自身への信頼感が身につき、いつの間にか”自分でやる”子どもに育ちます。しかもきちんとお母様にしていただいたように。

そう幼稚園から言われても、お母様にしてみたらにわかには信じがたいのでしょう。依頼心が育ってしまうのでは、と思うのですね。ただやってあげるのではない、一心同体のようになって心でやってあげるのだから依頼心にはならないのですが。頭でばかり考えていないで身体を使ってお世話をなさるようになると、だんだんわかってくるのでしょう。情報過多の昨今、子育てに関する主義をお持ちのお母様が多く、机上のそれを変えるのにかなりの時間を要します。

けれど、ギクシャクしているお子さんとの間柄がやはり気がかりだったのでしょう。意を決したお母様が、心のエネルギーを使ってご自分を変え、言い聞かせをやめ、手をかけてお世話をなさるようになったとたん、お子さんの心が柔らかくなったのをお母様も感じたのです。

いつの間にかお母様にも感じる心が育っていたのですね。嬉しい母と嬉しい子どもになってそれからお互いどうし成長の道を歩いて来たのでした。(もっと早くご自分を変えればもっとよかったのにと、ついつい思ってしまう幼稚園なのですが———)

こんなこともありました。子育て本によく書いてある「子どもの質問には億却がらずにその時答えましょう」というマチガイ。 「適当にしているとせっかくの知的な興味や母への信頼が失われてしまう」といったあれに、母と子の時間を奪われた人は多いと思います。お母様がお忙しい時、下のきょうだいのお世話をしている時、つまらない時など、小さな子どもはママにこちらを向いてほしいのです。大好きなお母様の気を引くために、本当に知りたいわけでもない質問をすることは、よくあることです。

もちろん、本当に不思議に思って聞いてくることもあります。落ち葉の秋。はらはらと落ちてくる葉っぱに「どうして落ちちゃうの?」と聞く4歳児。落葉(らくよう)は普通それに先立ち葉緑素が分解し、紅葉黄葉を生じ、それから葉柄のつけ根に離層ができて、枝を離れるのです。まさかそんな説明までなさらないと思いますが。

「うーん、どうしてだろう———。」とお母様が考え込んでいると、4歳の坊やが「ぼくわかった」と言ったと。「一生けんめいつかまっていたけど、くたびれて手を離しちゃったんだね」。考え込んでいてよかったとお母様。4歳の幼児の科学のはじまりは、大人の理屈とは違って当然。 花にも風にも葉っぱにも、自分と同じに生きて心があると思っている、そういう発達なのですから。

大人の正しさと子どもの正しさは違うのです。

何年も前のことですが、「聞かれたことは正しく教えたい」とおっしゃるお母様がいました。ニュートンの動や慣性の法則まで説明する生活が、4歳の坊やの心を緊張させ頭を受動的にしてしまったのでしょう。自らの力を使って遊ぶことのできないお子さんになってしまったのです。子どもの心に戻すのに時間がかかり、大変苦労したことでした。

幼児は小さい大人ではありません。今いる世界、子どもの世界で成長するのです。この坊やもそうでしたが、本当にそのことが知りたいわけではないのです。ママの気を引きたくて聞くのです。「ママこれ何?」「なんて書いてあるの?」お母様は難しいことを聞くとぼくの方を向いてくれるからと。

ニュートン母も今の母も同じ。お子さんはお母様が不満だったのです。きっと一緒にいてもおもしろくなかったのでしょう。子育て本に書いてあることばかりを手がかりにしているため、お母様自身日常生活に創意工夫がなかったのですね、きっと。

子どもの世界のごっこ遊びなどは意味不明。お母様自身の来歴にもよりますが、幼い頃自らの力を使ってたっぷり遊んだ経験が乏しかったなら、どうしていいかわかりませんものね。だから現実的なことばかり口にして、夢のある言葉など使えなかったのです。

児童館などの催しに行けば、時間は潰せるし、大人同志の会話も楽しめる。お母様自身、今ここにいる我が子の中身、心のことまで、本気で考えることはしなくて済んできたのかもしれません。

3歳児は感情の使い方を学ぶ時代。 “機嫌がいい”ということが柔らかく広い心の基本です。3歳頃からお母様への不満が心の奥底に積み重なってきてしまっていたら、不機嫌で不安定な人間(そういう人、世間にイッパイいますよね)に育ってしまいます。豊かな人間関係は 望むべくもありません。

お子さんと遊ぶのに苦手意識があって、家事に逃げていたお母様は「リズム幼稚園」に参加なさり、身体を動かしてみることにしました。身体が動くようになると不思議なことに心も動くのです。

表現力も身についたのでしょう。お家の中の空気が明るく柔らかくなったのか、お子さんが変わってきました。今まで「ママこうして!」と言われるまで何もせず、遊びのタイミングを著しくずらしていたのに、お子さんの「こうしたい」に先に気づくようになり、お家でのごっこ遊びもお互いどうし楽しくなったらしいのです。

お子さんの気を引く行動も鳴りをひそめ、泣いたり怒ったりもなくなり、機嫌の安定したお子さんは、持って生まれた力を使うようになってきました。お友達とイメージを共有し、仲良く遊ぶ我が子が嬉しく、「こんなことがわからない」と飾らず打ち明けてくださるようになりました。お母様も心のエネルギーを使って自分自身を見詰めなおしたのです。 具体的な質問に、より具体的にお答えしながら感じています。お子さんとの絆がだんだん太くなり、”お母さん”のおもしろさを今きっと味わっていらっしゃるのだなあと。

こういうかたも増えました。まだご入園前の小さなお子さんに対し頻(ひん)々(ぴん)と「どうする?」と問うお母様。あまりに不自然なので、“ちいさいお庭カフェ”のお母様になぜ問うかを尋ねたことがあります。勇気を出して。「自分は親に敷かれたレールの上を走る人生だったので、子どもには自分の道は自分で選ぶ人間になってほしくて」とのことでした。主体的な子どもを目指してのことなのですね。「今日も、どうする?どこへ行く?と聞いたら『ここ』と言うので連れてきました」とお母様は笑顔なのですが、お子さんの表情は曇っていて不機嫌そうです。午後になり、「どうする?帰る?まだ遊ぶ?」と、またお母様。お子さんは「まだ遊ぶ!」お母様は言う通りになさるのですが、お子さんは少しも楽しそうではありません。もうどうしていいかわからず、泣き叫びが始まります。そうなってからお母様は暴れるお子さんを自転車に乗せ、帰路に着く。というのが恒例です。こういう日々を過ごしているお子さんがこの世界を、これから自分が生きるに価するものとして生きられるのか、と心配になりました。

同じお歳のお子さんが「もっと遊ぶー」。お母様は「帰るわよー」と歩き始める。お子さんは「あ、帰るんだな」と普通に帰っていく。こちらはいつも機嫌が良く、日頃の母子の間柄の安定がうかがえます。この二人は一心同体。この幼稚園児のお母様と下のお子さんです。母と子はすでに太い絆で結ばれているのです。

多くのお母様がたはきっと、お子さんが言葉を話すようになった時点で、「もうわかるようになった」とお思いになるのでしょう。お子さんとの一心同体をいわゆる教育的に切り上げるのでしょうか。お子さんたちの難儀はお母様からの質問攻め。人生はまだ始まったばかりの3歳程の幼児に、「どうする?」を連発していると、主体的どころか不安でいっぱいの子どもに育ってしまいます。

お母様がもし、今小さな3~4歳の幼児だったらどうでしょう。「ハイ、あなたどうしますか?どれがいちばん自分自身を充実させますか?自分で選んでいいですよ」と言われたって困るでしょう。頼りにしている母親に判断を丸投げされているのですよ。子どもの気持ちを大切にしているつもりで、母親としての判断をさぼっているのです。幼児の教育の特徴は、いつとはなしにいつでもしているところにあります。日常生活の中、幼児はいろいろな場面のお母様の判断力を自分のものにしながら育っていくのです。一心同体のように生活しながら。取り立てて「どうする?」と判断を促さずとも。

お子さんと共にいると、思わずパッと身体が反応します。「ここで親切にしていいだろうか」など考えないで。それがいいのです。

こういう話をすると「何歳まで一心同体でいいのですか」などと質問なさるお母様もありますが、ご自分のお子さんの中身はどうなのでしょう。母の味に満足なのか不足なのか。味不足だともっともっとと味わいたくて、結局自立が遅れますから、何歳までなどと区切りを求めず、それこそ自分で感じ考え判断してほしい。「どうする?」とお 母様に質問したいです。母としてのカン(・・)をさぼらず磨いてほしい。「この子がそう言うから」とただただ我が子の言う なりに行動することが主体性を育むと思っていたらマチガイます。

歯がゆいお母様にお子さんの心はいら立っているのかもしれません。お子さんは母を味わいたいのです。お子さんとご自身の将来のために、心のエネルギーを使いましょう。幼児期は短く、時は止まってくれません。「ああ あの時ああしておけばよかった」でなく「ああしておいてよかった」と思える園生活 (お母様との間柄は人生の基本。園生活にも大きく影響します)にしてほしいと強く願います。

幼児にとっては母親がいなければ世界は回らない。これはすごいことなのですよと、これまでお話してきたことの一部を文章にしました。(文にすると長いですねスミマセン)

卒園が近づいたお母様がたには懐しさもあるのでは。ああ これは自分のことだ」と。「○○する?」とログセでついつい聞いてしまうお母様は、言った時はもう動けばいい。そのことをするために。

お子さんの目を見て言っていると、主体的どころか受動的な頭を育ててしまうからと言われていたっけ、と。入園したのはお子さんだと思っていたら、お母様も入園なさってご自分を磨いた歳月だったのです。

育児とは訂正しながら前へ進むこと。

「我が子とどうつき合ったらいいかわからない」「かわいがってと言われてもかわいがりかたがわからない」とおっしゃっていたあの頃のお母様。ありのままだった自分に、新たな力が加わったのです。「自分でやらせましょうと思っていた。そう思っていた時は苦しかったけれど、代わりになってやってあげるようになったら、意欲的になって、いろんなことを自分からやるようになった。言われなくても。小さかった頃の方がかわいかったはずなのに、今の方がかわいい」そうおっしゃるお母様も。なんと嬉しいことでしょう。

「もうすぐ小学校」と言葉ではわかっている年長山さん。豆まきの日から続いている筋トレごっこも、大きくなった喜びが後押ししているのかもしれません。自然幼稚園の春が嬉しい年長児たちはまた虫たちとのあの生活が戻ってくることに心を躍らせています。その生活もあとわずかだということは忘れて、夢中になってしまうのです。

そういう子どもたちだからこそお別れの日の直前まで、おもしろいことを考えて生活することができます。感じ考え判断しながら自分たちの力を精一杯使い 充実へ向かって。私たち大人の”大切”はもう学校だからと手を引かず、最後まで手をかけること。子どもたちを不安にさせないこと。心のエネルギーを使って、積み重ねてきた日々を信じることです。

お別れは辛いのですが、明るい4月へ向かって春の匂う大地を踏みしめ、元気に歩いていきましょう。

もし小学校生活にくたびれた時は、いつだって帰ってきていいのです。ここは出発点。いわば実家です。みんなの大好きな教育のふるさとなのですから。幼稚園はいつでもあなたを待っていますよーーー。

にじみ出る真実性~倉橋惣三選集より~ 私たちの大切にしている倉橋先生の言葉を贈ります

あなたのもっていられると貴いもの、美しいもの、賢いものを、みんなそのままに受ける力は子どもにはない。その意味で、折角のあなたの感化も彼等に及ばないものが多いかも知れない。そのまた逆は、あなたの持っている欠点をも彼等の前に或る程度までは隠し、つくろうことが出来るかも知れない。素より意識してそうするわけではないが、そういうことで済む場合も少なくあるまい。

ただ一つ、あなたの持つ真実性、あなたの性格の底からにじみ出る真実性だけは、どんな幼い子どもの心にも届かずにはいない。方法でもなく術でもなく、或る日、ふとにじみ出るあなたの真実性こそは、幼い子どもの心に、強い深い感化を与えずにいない。その逆に、若し、あなたに真実性が欠けている時は、それがまたそのままに、幼い子どもの心を不真実にせずには已まないであろう。