園だより(令和7年度5月)

幼稚園の空に広がる若葉の緑が濃くなって5月です。

4月の幼稚園は、子も母も保育者も夢中で過ごした日々でした。幼稚園ではお子さんたちと懸命な遊びの生活を展開し、その日の保育が済んだ後、保育者どうし穿った話し合いをします。今日一日を、子ども一人ひとりが生き生きと生きられたか。充実感や達成感を得られたか、と。

お母様がたも我が子の寝顔に、過ぎた今日を思い返すことがあるでしょう。「ああ、あの時ああしてあげればよかったのに、あの時は思いつかなかった」などと、寝顔に謝ることもきっとあるでしょう。幼稚園も同じなのです。ご家庭と幼稚園が、育てる者として同じ心で生活できるありがたさを日々感じています。

保育者たちが大切にしていて、しばしば旙く日本の幼児教育の父倉橋惣三著「育ての心」。その序文が胸を打ちます。

自ら育つものを育せようとする心。それが育ての心である。世にこんな楽しい心があろうか。それは明るい世界である。温かい世界である。育つものと育てるものとが、互いの結びつきにおいて、相楽しんでいる心である。

育ての心。そこには何の強要もない。無理もない。育つものの聞きな力を信頼し、敬重(尊敬して大切にすること)して、その発達の途にしたがって発達を遂げさせようとする。役目でもなく義務でもなく、誰の心にも動く真情である。

しかも、この真情が最も深く動くのは親である。次いで幼き子らの教育者である。そこには抱く我が子の成育がある。日々に相触れる子らの生活がある。こうも自ら育とうとするものを前にして、育てずにはいられなくなる心、それが親と教育者の最も貴い育ての心である。

それにしても、育ての心は相手を育てるばかりではない。それによって自分も育てられてゆくのである。我が子を育てて自ら育つ親子等の心を育てて自らの心も育つ教育者。育ての心は子どものためばかりではない。親と教育者とを育てるである。

この序文の前に、「書物は読者によってのみ生きる」と短い一文があり、本当に、と思ったことでした。

家全体地域全体が母性を持っていて、そのまわりを自然が取り巻いて、いろんなものが子どもを守っていた時代とあまりにも違う、都市化してしまった時代。「その人その人個人の人生」ということになった時、「ああ楽になった、自由になった」と思ったわけだけれど、何もかも個人の責任になってしまいました。子育てするためにはものすごいエネルギーがいるわけです。

ひとこともものを言わずに生きられる時代に、いちばん便利でないのは乳幼児です。思い通りにいかないから子育てがイヤになる。けれど、「簡単じゃないからおもしろいんだ、まずは練習」と思いながらやってみる母と、自分は子育てに向いてないからと早ばやと人の手に預ける母。始めのうちは、交わるか交わらないか程度で幅が狭かった両者の平行線。その平行線の幅が、時が経つにつれ、だんだんと広がってしまっているのを感じます。

高階幼稚園の大人たちは、子育てほどすごい仕事はないと思っているのですが、都市化した世の中は大人の都合ばかり。いい幼稚園(認定こども園)やいい保育所とは「7時から10時まで預ってくれて、遅くなったら夜ごはんも食べさせてくれる」所なのだそうです。子と母の絆が太く育つわけはありません。

そういう母たち父たちが「育ての心」の読み手になったところで、何かを感じてはくださらないだろうと思うのですが、違うでしょうか。

子育てだって初めから上手な人はいないのですから、やってみて「ああ、まちがった」と思ったら、気を取り直してやり直す。この繰り返しが子も母も育てるのです。

苦しいこともありながら楽しい。苦楽しい。苦楽しいことは充実感と似ています。高階幼稚園は子どもも、その母も、持って生まれた力を使いながら、ありのままの自分が新しい自分になっていくよう、支えているのです。そうして支えながら、保育者たちも育っていくのです。なんと楽しく温かく、ありがたいことでしょう。

幼児教育の最も大切なところ、それは親切です。親切のないところに教育はありません。親切とは、相手から求められずとも、求める心を見つける目であり、聞きつける耳であり、細やかに行き届く心であり手なのです。

お子さんに親切にすること、手をかけることは、心をかけることなのです。いつも心をかけてもらっているお子さんには、安心感がたっぷり貯えられていますから、心が広く柔らかく、意欲があります。安定していますから、いろいろなことを感じる力があります。感じるから次に考える、考えるから次に判断できるようになるのです。

ところが親切にばかりしていると、主体性が身につかないという勘違いが、多くの親たちの間に幅を利かせているのです。相も変わらずに。

高階幼稚園を卒園し、小学生になったAちゃんが、休日お母様と公園に出かけた時のこと。小学校のお友達数人とそのお母様も遊びに来て、お母様たちは大人どうしの会話に熱中しています。Aちゃんのお母様は、Aちゃんの遊びがもっとおもしろくなるように、手を貸したりしながら行ったり来たり。小学校のお友達のお母様たちには、お子さんたちとのやり取りがありません。お子さんたちは固定遊具に乗り降りしながら、てんでに遊んでいる、という様子。

Aちゃんの遊びを手伝うお母様に対し、お友達のお母様たちが「そういうやりかたは否定しないが、私達はそういうことはしない主義」とおっしゃったそうなのです。

小学生低学年の発達は幼児と変わりないのですが。Aちゃんには意欲があり、いつも落ち着いて穏やかなことに気づいているはずなのだから、どういう関わりかたをしているか、見て学ぶチャンスなのに、残念なことだなあと。「感じるから次に考える、考えるから判断できるようになる」大人も同じで、まず感じる心を磨かないと。そう思ったことでした。

公園でだって、ただ遊具に乗り降りするだけではつまらない。草や石や虫。落ちている枝や葉。足元を見れば小さな小学生の遊びのきっかけになるものがいろいろあるはずなのに、お友達の母たちは、子どもの心の発達などおかまいなし。

「主体的に育てたいから大人は何も手伝わない」という間違いに気づくことなく、過ぎて行くのでしょう。小さい子どもの母としての時間が。

お子さんの心の中はさぞかし不安と不満がいっぱいでしょう。惜しみなくお世話をしながら、困難度を子どもの今の力で乗り越える程度にしてあげる。例えば製作のお面や人形、乗りものなども、ちょっと頑張れば自分でも描ける、作れる、と思われるくらいにして。そうして一心同体のように生活していると、いつの間にか知らずしらず、子どもたち一人ひとりが持って生まれた力を使い始め、こうしようと思ったことを形にするために熱心に取り組むようになります。

達成に向かって努力する一人ひとりが集まった集団は、建設的な集団です。お互いどうしが最良の教育環境なのですから。

建設的の反対は破壊的。意欲を形にあらわす生活を積み重ねていない集団はそうなります。子どもにとって遊びは学びだけれど、遊びのイメージも工夫もなくただただふざけ遊びをする、そしてそれがエスカレートしてしまう破壊的集団の方が、世の中多いようです。自ら感じたり、考えたり、判断したりする経験が乏しいから、子どもたちの中にモラルも育ちません。

お母様に手をかけてもらえず、不安や不満でいっぱいの幼児たちが、決められた計画をこなす園生活を毎日積み重ねたらどうなるでしょう。ちょっと考えればわかります。こうしたいという意欲も生まれず、自由時間になればただ発散するだけのふざけ遊びしかできないでしょう。荒々しい言葉もっ飛び交うでしょう。夢の世界でイメージ豊かに生活するはずの大切な幼児時代がそんなふうに過ぎ去ってしまっていいわけはありません。

そしてそういう幼児時代が人生の土台になってしまうのです。意欲もなく目的意識もない虚しい子ども、荒々しい子どもが増え続けているのだと学校の先生から伺いました。お若い先生がたの退職が増え続けているのも、そういうわけなのだろうと思います。子と母と教師が、お互いどうし信じ合い、響き合える学校生活であったなら、苦しくても楽しい苦楽しさを、学校の先生たちも味わえるのにと。

高階幼稚園を卒園し、中学生になったBちゃん。小さな幼児の頃から、ごっこ遊びに使うためにいろいろなものを作りました。コンクリートミキサー車やゴミ収集車など、イメージに近づけようと一生けんめいでした。保育者たちは、困難度を子どもの今の力で乗り越えられる程度にしながら、年、年中、年長と思いを形にするための手伝いをしました。

大きくなるにつれ、Bちゃんの遊びのイメージがはっきりとし、Bちゃんの手もしっかりしてきますから、Bちゃんが乗り越えられる困難度はだんだん上がります。保育者は手を貸しつつ、手を引きつつ。Bちゃんはイメージに近づけようと、自分で、自分たちの力で作り、それを使ってお友達と遊び、また必要なものを思いついて作りという生活を繰り広げました。

もちろんお家でも同じ。お母様がBちゃんの日常生活に親切に手を貸し、いろいろなものを作ってごきょうだいと遊ぶ生活は、小学生になっても続いたのです。

そうして中学生になったBちゃんは、驚いたことにお母様との日常生活のいろいろなことを、手伝うようになりました。手伝ったり手伝ってもらったりのお互いどうしの関係が逆になっただけで、お互いが今までと同じように楽しく、おもしろいのですって。お料理も楽しいのですが、春休みには物置のペンキ塗りを手伝ってくれ、達成感を味わいました。

お母様も幼稚園も、Bちゃんの思いを形にする手伝いをしながら、Bちゃんと日常生活の楽しさを共有し、Bちゃんの中に生きる力を育てたのだという気づきがありました。何よりも「生きることは楽しい」そういう人生の根本を培うことができたのだと感じます。

中学生ですから、ちょっと苦しくてもしなければならないこともたくさんあります。そういう学校生活の中、下級生たちのモチベーションを上げるために努力したり、自分のやりたいことのために自ら計画、実行したり。Bちゃんはいつも前向きに、意欲を形にする生活を続けているそうです。

幼稚園の頃からの実体験のひとつひとつが、こうして目に見える形になってきたのだなあ。これからいろいろな出来事が肉付けしていくのだろうが、基本的なことはもうしっかりと身についているのだなあと感じ、子育てしながら、人間の発達について学んでいる実感があるとお母様。

手をかけるとは心をかけること。手をかける母と、何かの主義のためと称し、手をかけない母。手をかけているつもりで、ロばかりかけている母。こうしなければいけないという決まりはないから、子育てはおもしろくもあり、おそろしくもあるのです。学校の勉強はいつからでもできるけれど、過ぎ去った幼児期には戻れません。

幼稚園の午後のこと。小さい人たちが土を掘っています。登り棒を滑り降りた時足裏に土の硬さを感じたのです(はだしだった)。それで土が硬いのは何かが埋まっているからだ、きっと。「堀ってみよう」「掘ってみよう」ということになりました。何が出てくるかなと小さいながら考えて、お友達どうしイメージの共有が始まりました。

「あ、石が出てきた!」「あれ、これは何だろう?」「あ、幼虫が出た!」偶然の発見のおもしろさ。ああ、お友達どうしになってきたのだなあと、嬉しくもあるのですが、気がかりも。

外側から見ると、お友達と一緒に穴掘りごっこのおもしろさを共有しているように見えますが、実はそうではなく、”ママへのおみやげ”のためだけに、ただ掘っているお子さんがいます。形だけ真似をしていますが心はお友達でなく、いつだってお母様に向かっているのです。

“おみやげ”はお子さんの心。自分を差し出しているのです。お母様の心は何に向かっているのかわかりませんが、外側からは見えないお子さんの不安に気づいてほしいと思います。お母様の気づきがあったなら、きっと安心してお友達と子どもの世界で遊べるでしょう。

3歳は3歳のその時の力。4歳は4歳の。5歳は5歳の。その時使っておかなければならない力があります。使えないまま時が経ってしまいます。

幼児の遊びの世界はたわいなく思えるかもしれませんが、学校のお勉強ではないからと軽んじていると、不安が強い、他律的な人間に育ってしまうかもしれません。幼い子どもの心に深く届くのはお母様の持っている真実性です。これが欠けていた場合、お子さんの心も不真実にならざるを得ません。お母様は心持ちの先生なのです。子育てでお困り事があるのでしたら、どうぞお声かけくださいね。

幼児の教育は日常生活の中、いつとはなしにいつでもしているところに特徴があります。

大人たちがつくり出す日常が子どもの世界そのものになるのです。子どもたちがこの日々を信じ、生きるに値するものとして、精一杯生きられるよう願う、5月、薫風の幼稚園です。