園だより(令和7年度4月)

ご入園ご進級おめでとうございます。

木も草も、花も小鳥も虫たちも、春を歌う自然幼稚園で、子どもたちの新しい生活が始まりました。どんなに嬉しいことでしょう。

「庭って何?ベランダのこと?」と3歳児に聞かれてから30年程経ちましたが、子どもたちはお庭が好きです。雨降りの日はテラスで雨音を聞きます。

幼稚園の春を経験している大きい人たちはきっと感じます。またやってきた春が、自分たちの遊びの生活をおもしろくさせようと、こんなにいろいろ準備してくれていたのだと。色や形も様々な美しい花たちが次々に咲き始め、大好きな蝶や虫たちも顔を出し、木々の葉色がだんだん濃くなり、幼稚園の空にむくむくと広がって強い日差しや細かな雨から自分たちを守ってくれる。

春の自然は、大きくて細かな興味深い教材を子どもたちに与えてくれているのです。武蔵野の自然を留めるこのお庭の教育力の、なんとありがたいことでしょう。どこかへ出かけなくても、毎日いつもここにあって、様々な命を育んでいるのですから。

今、子どもたちが生きている乳幼児期は、身体系と脳神経の土台が築かれる大切な時代です。生まれてからの数年間、基本的な神経回路が構築される時期に必要なのは、自然環境からの本物の刺激なのだそうです。人間が意識や精神を獲得していく過程で、身体がその基本になっているということは、まちがいありません。

実体験が肝腎なのです。

例えば家庭のテレビの場合、色を作り出すのに赤緑青の光の三原色を基本にしています。が、自然の世界は全く違い、複雑なスペクトルが重なり合って、最終的な色が現れてきているのだそうです。脳の中の色覚受容体の個人差によっても、見えているものは異なるのだそうですが。

音も同じ。ピアノの音はすてきだけれど、周波数スペクトルを測ると、基本は音の響きに近い正弦波、自然の音、例えば雨だれや風や葉ずれの音などは、とても豊かな広い周波数を持っているのだそうです。幼い時に自然の中で生活することによって、豊かな幅広い感覚系が育まれるのですね。

自然の形をよく見てみると、縦線も横線も、そして曲線もとても豊富です。

人工の世界は、例えば都市を見ると、横や縦の直線が異常に多いことがわかります。プラスチックの造花を部分的に拡大してみても、大きな変化は見られませんが、自然の花々は、拡大すると次々と違う世界が広がります。

乳幼児期に自然の中に身を置く実体験と、バーチャル体験とが決定的に違うのは、意識下にまで多くの”生情報”が入ること。脳神経が活性化し、意識するまでもなく五感を総動員して無数の情報を取り込むのだそうです。

バーチャル体験では、どうしても得られる情報が限られます。作られた世界は、人間の脳を一度通した抽象化されたものだからなのですね。

大人たちはバーチャル体験により、「知っている」という思い込みがどんどん強くなっている気がします。自分の五感から入ってきたものより、誰かがすでに収集した情報に重きを置きがちです。都市化社会は、自分で感じたことに自信を持てなくさせているのかもしれません。

例えば寒い冬。我が子が鼻水をたらしている。あら、寒いのかとらともう一枚着せてみたら鼻水が止まった。「ハナミズって寒いと出るんだな」と、子育てしながら学んでいく。そんな時でもついつい小さな我が子に「もう一枚着る?どうする?」と頼ってしまいたくなる母が多いように思います。

“強い身体のための薄着”を固く信じている母は、我が子の鼻水にはかまわず、トレーナーの下は袖なしのランニングシャツ。毎日ハナミズをたらして風邪気味でも強い身体のため。風邪をひきやすい体質を作ってしまうかな?などとは考えない。

人間は変温動物ではないし、身体の体質は人によって違うのです。”情報や一般論”より、お子さんとの日常の中、ご自分の感覚でとらえた方がお子さんには嬉しいし、母も母として成長すると思うのですが。

自然を排除し、都市化した社会。人工の世界に生きる大人たちと、自然の典型に生きる小さな幼児たち。大人と小さな子どもが共生するのは難しい時代になってしまったのかと、街を歩くたびに感じます。

泣き叫ぶ乳児を乗せたベビーバギーを無表情で押しながら、店先を眺めるご夫婦。胸が潰れる思いでやり過ごすと、次に泣き叫んでいたのは3歳位の男児。やはりご夫婦が一緒でスマホに熱中しています。どちらも泣き叫びが止みません。お口から内臓がとび出しそうです。でも大人たちは、子どもは泣くもの、そのうち疲れて泣き止むだろうと、そういう雰囲気です。

子どもの身になったり、大人に思いを汲んでもらったりが何もない世界。親子が日中一緒に過ごすのは休日だけで、あとは朝から暗くなるまで保育所に預けてしまっていたら、お互い同志はこんな感じなのでしょう。高階幼稚園の親子とのあまりの違いに胸が詰まったことでした。

そんな折、春休みの幼稚園に今は祖母となった卒園母がやって来ました。あの頃の坊やちゃんが”イクメン”と呼ばれるお父さんになったこと。奥様は仕事復帰のため、職場近くの保育所機能のある幼稚園を選んだそう。父親である卒園息子は「あんな大きい幼稚園で大丈夫なんだろうか」と心配しながらも近くて使い勝手がいいからということで、奥様が決めたらしいこと。

“使い勝手がいい”という理由で選ばれる幼稚園の先生たちは嬉しいのだろうか。と、改めて考えてしまいました。私立幼稚園なのです。もし私立小学校や私立中学校私立高校や私立大学など、これから進もうとしている学校教育法上の学校を選ぶ時、”使い勝手”では選ばないでしょう。世の多くの大人たちは幼児期を軽んじているのですね。乳幼児は何も言いませんから。

母たちは、母になっても母になる前の自分に戻りたいのです。「子どものために自分の今したい仕事をがまんするのはいやだから」とご見学のお母様がおっしゃっていました。「したいことができないストレスをかかえた母は、子どもだっていやでしょう」と。

都市化社会が母親たちの意識をこうして変えていくのでしょうか。

今はそういう時代だからと、大人たちは皆片付けてしまうけれど、小さな幼児の発達は今も昔も変わりません。少し大きくなったお子さんと違い、小さな幼児はどんなお母さんでもお母さんを頼りにしています。この世界に生きていくための拠り所なのですから。

これまで大勢の母と子と深くかかわってきましたが、小さな幼児はどんな怒りんぼママでもママがいいのです。

怒りんぼママはなぜそんなに怒っているのか。初めての子育て。他の子どもにできることが我が子にはできなかったりする。どれもそのうちできるようになることばかりなのですが、お母様は心配なのです。お母様はご自分が心配したくないがために、あれもこれもすぐできるようになってほしくて、はがゆい我が子にクドクドゴテゴテおっしゃっていたのでした。

叱られてばかりのお子さんはどうしたって気持ちが後ろ向きになりますから、お母様はますます心配になりの悪循環。

「悪い時に叱るのではなくいい時に褒めるといいですよ」「親切が肝腎です」などなど、お母様とやり取りするうち、いつの間にか知らずしらず母の心配も子の後ろ向きもなくなって怒りんぼママを卒業。母にも子にも自信が生まれ、子はますます母が好きに、母はますます子がかわいくなり、日常生活が味わい深くなっていきます。

様々な情報に惑わされることがなくなった母は、自分自身の感覚が信じられるようになり、口ばかりでなく身体も活躍するようになって、我が子との絆がだんだん太くなっていくのです。子育ても練習しながら上手になっていくのですね。

都市化社会に育ち、キャリアアップして自己充実をしたい母たちは”日常生活”そのものに価値を感じないのでしょう。少し昔ば”家庭教育”と言われ、人間形成の基本とされていたのですが、今は死語のようです。母としての仕事にはギャランティーがないからかもしれません。

乳幼児は自然そのもの。子育てはままならない。大変だ。で、あたり前のように便利な保育所に預けてしまう。あと数年、自分の手で育てて我が子との絆を育み、それから仕事復帰したってその後何十年も仕事はできるのに、子育ての技術は仕事社会に大いにプラスになるのに。(ちなみに筆者はもう50年近く仕事をしています)

女性も社会で活躍というキャッチーなコピーに乗り、キャリアを積む。国への税金も積む———。日常を別々に過ごしているうちに、母と子の絆はどんどん細くなっていき、子は言うことを聞かなくなり、子育はますますままならないものに———。

母性が弱くなってしまったら、子はおかしくなって当然。それでそういう心身のありようが、そのうち大人になるその子どもの人生の基本になってしまうのです。

高階幼稚園を卒園して小学校に入学すると、驚くそうです。不安や不満をかかえた子どもたちが大勢いることに。3歳児の頃に育てておかなければならなかった柔らかく広い心も育ててもらわれないまま、身体だけ大きくなった子どもたち。この子どもたちとその母たちはこれからどんな人生を生きるのでしょうか。

育てる者としての日常があれば、悩んだり迷ったり考えたりしながら練習し、我が子と一心同体の時を過ごし、子育てのキャリアを積んで揺るぎない母と子になれたのにとそう申し上げたくなるのはいけないことでしょうか。今からでも間に合うかもしれないと———。

今、母親になっている母たちにも、都市化情報化の波の中で育った子ども時代があり、そのお母様との日常があったわけです。母は仕事で忙しく、便利になったゆえに具体的な実体験がなく、お勉強だけしていれば母は安心。そういう生活で、自分の母親との日常の思い出は乏しく、自己肯定感がない。そうおっしゃる母たちが多いことに気づきます。

日本人の倫理観は日常生活で培われてきたのですが、都市化した日本には、日常生活の価値もなくなってしまうのでしょうか。幼児の教育はいつとはなしにいつでもしている、というところに特徴があるのですから、母と子の日常生活が失われてしまったら、どちらも育ちません。それで子も母も幸せになれるのでしょうか。

私たち大人がしなければならないことは何か。生意気なようですが、幼児たちが幸せになれる社会を作ること。生まれて数年間は母の愛情とかかわりが不可欠なのだという原点に立ち返ることです。大人が”便利”に走り続けたら、子どもも自然も復活しません。母との日常の味を知らない子どもたちが大人になった時、母親になりたいと思うでしょうか。自分の母のような———。

子育てはご自身が生まれ、育てられてきた来歴を背負って行うもの。育てられた母親との絆の太さにより楽だったり苦しかったりします。細かったからといって、母となった今、我が子との絆も細くすることはないのです。せっかく母になったのだから、声をかけ心をかけ、お子さんをうんとかわいがって、お子さんと一緒にご自分の幼児時代を生き直してみたらいいのです。あの頃の小さかった自分自身に話しかけながら———。

ずいぶんと生意気なことを申し上げてきましたが、何も言えない子どもたちの代弁なのですから、しっかり心に留めてほしいと思っています。

高階幼稚園は子も母も大切に育てる幼稚園。自由な遊びを中心とする保育です。幼児の教育のことを”保育”というのです。子どもさながらの遊びの生活を壊さず、その中に教育を入れ、子どもの中身を育てます。幼児時代に大切に育まれた自分自身が、その人生を支えるのですから、保育者たちは毎日、本真剣です。

家庭と幼稚園が互いに信じ合い響き合って、日常を丁寧に親切に行きましょう。親切とは深く切なること。

母の味、幼稚園の味を味わいながら、子どもたちは二度とない幼児時代を、精一杯の力で思いきり生きるに違いありません。そう願う4月、春陽の幼稚園です———。