草木萌え動く3月になりました。冬ごもりしていた虫たちが動き出す啓蟄ももうすぐです。
毎日会って一緒に遊んでいた虫たちがいつの間にかいなくなった秋。時折凍て蝶が、心細げに舞う姿を見かけた冬。お友達の虫たちはどこでどうしているのかな、と不思議に思っていたら、先日園芸サークルのお母様が落ち葉の下にクビキリギスを見つけてくださり、嬉しい山さんたち。「何か食べさせなくちゃ」と餌になる虫や葉っぱを探します。
葉っぱはいろいろあるけれど、虫はなかなか見つかりません。あちこち探索し、ジグモとクラジムシとハサミムシを見つけ、「どれが好きかな?」「なんだか懐しいね」と山の男児たち。もうすぐ春。また虫たちとのあの生活が始まる嬉しさに心も身体も動きます。
春夏秋冬、幼稚園の自然の中で生活してきたベテラン園児年長山の組の園生活はこの3月で終了です。幼稚園児としての日々はあとわずかなのですが、子どもたちにそんな実感があるはずもなく、ただただ春の嬉しさに心を躍らせている年長児たちに胸がつまります。
2月の豆まきの日、突然のメールがあり、大学入試を終えた卒園高校3年生が2人、懐かしい幼稚園にやって来ました。その後、「生きる力の育成のための社会体験学習」として卒園中学1年生が2人。大きくなった子どもたち。この4人の幼児期を共に没頭して生きた保育者たちにとってあの日々はつい昨日のことなのですが。
大きくなった子どもたちは何を言われるまでもなく、保育者や子どもたちの様子から、自ら感じ考え判断して行動し、自分の持つ力を惜しみなく使います。幼児たちの思いを汲んで、それが達成できるように一生けんめい手伝います。相手が嬉しいと自分も嬉しい。そう感じる共感力も身についているのだと、こちらも嬉しくなりました。
中学生たちの3日目にひとつだけお願いしました。それは何か。野球ごっこ、山の組ドジャースのメンバーAちゃんのこと。Aちゃんは豆まきの時はうっかり上手投げになるのに、キャッチャーの守備につくと、下手投げを守ります。慎重なのです。多くの男児は多くの女児より慎重なのですが、Aちゃんの身体にはもう充分力がついていて、上手投げでも格好良く投げられそうなのです。そこで、子ども同士の方がいいからと、投げ方のコーチをお願いしました。慎重な幼稚園児だった1人に、「ちょっと似ているのよ」と付け加えたら、意欲的な笑顔になりました。
登園前の掃除や準備が済んでからふと見ると、砂場の掘り返しを終えた2人がコーチの練習をしています。小さな子どもに、どうやったら楽しく上手に教えられるか、まず自分たちもやってみて、工夫をしているのです。なんて偉いのでしょう。そして子どもたちがやって来て、山の組ドジャース恒例の練習試合が始まり、野球ごっこのコーチ2人はAちゃんのフォーム変更にみごと成功したのです。上手投げのピッチャーAちゃんの球は、しっかり打者のバット目ざして飛び、Aちゃんだけでなく、コーチを含む山の組ドジャースのみんなが達成感を味わいました。Aちゃんも2人のコーチもどんなに嬉しかったことでしょう。
中学生たちの最終日、Aちゃんとコーチの3人はいい表情でさようならをしました。中学生と保育者にもさようならの時が来ました。やっと再会できたのにもうお別れです。保育者たちは充実した表情の中学生たちにお礼を言いました。「本当にたくさんのことをありがとう。Aちゃんのこともありがとう。あなたたちはAちゃんの成長に関わることができたのよ、よかったわね、嬉しいわね」と心から。中学生2人は幼稚園の時のようにいいお顔でいつまでも手を振って帰っていきました。こんなに育っていたのだ。生きる力は幼児期に身についていたのだ。と改めて感じたことでした。
それは、これまでの体験学習の中学生からも常に感じていたことです。中学生になってから生きる力を育てようとしてももう間に合わない。遅きに失するのです。
以前、「いいですよ、どうぞ」と高階幼稚園の卒園生でない中学生たちも受け入れていたことがありました。何年も。何か言われないと何もしない中学生がやって来て、「これこれをしてくださいね」と言うとその時それはするのですが後が続かない。自分から感じたり考えたりできないのです。一生けんめい遊ぶということもわからないため、ふざけ遊びを始めます。遊ぶことはふざけることと同じなのです。
幼児たちの遊びを見ていたら自分のすることに気づくのでは、と何も言わないでいると、子どもたちに話しかけ、しゃべってばかり。ただフラフラしている中学生もいます。自分の思いを形にするという経験がないのだろうと思います。だからどうしていいかわからないし、おそらく惜しみなくお世話をされていないから、自分の力を使うことを惜しむのだろうと気の毒になりました。
こういう人たちが学校のお勉強でいい点を得たとしても、その知識をどう生かすのか。大人になってもただただ言われたことをこなす生活をするのか、と心配だったのですが、幼稚園は中学生を育てる場ではありません。それもたったの3日間で、自分たちの生活が”ままならず”泣き出す園児もあり、中学校にお願いすることにしました。大切な園児たちの大切な3日間を、がまんさせたり泣かせたりするのは忍びなく、「申し訳ないのですが」と。それで高階幼稚園の卒園生だけの体験学習になったのです。中学生になって「生きる力を」は間に合わないと心底感じたことでした。
よし子先生はもうベテラン保育者ですが、大学の時教育実習で小学校と高階幼稚園を経験し、小学校ではもう遅きに失することを実感し、幼稚園教諭になったと言います。十把ひとからげ、多数をひとまとめに扱い同じことをさせる幼稚園でなく、一人ひとりを丁寧に保育し、生きる力を育てる幼稚園の先生に。大学では一斉保育など学ばないのですから。
あや子先生も、もうベテラン保育者ですが、やはり大学生の時自分自身で幼稚園をあちこち訪ねました。どこへ行っても子どもたちの意欲が感じられず、高階幼稚園に来たら子どもと保育者が生き生きと本気で生活していた。「遠いけど平気!ここに通いたい!」何しろあやこ先生は東海道を京都まで、自転車漕いで行った人なのですもの。あや子先生も高階幼稚園の先生になりました。
どんなご縁があったのか、お母様がたもこの小さい幼稚園のお仲間になりました。子どもさながらの遊びの生活を崩さず、その中に教育を入れていく幼稚園本来の保育ってどんなだろう。バスもない。給食もない。けれど子ども一人ひとりを大切に育ててくれるからと。お弁当作るの大変かな?でもきっとできると。
ご不安もあったと思うのですが、信じる力があったのです。自分も。幼稚園も。自分を信じられない人は人も信じられません。誰しも自分が規準なのですから。
自ら感じ考え判断できる子どもになってほしい。頭を使い、持って生まれた能力を発揮してほしい。子どもたちにそうなってもらうため、保育者たちは一人ひとりに惜しみなく世話をします。それこそ生活全部。身の回りのことも「これ作って」と言われた時も。口で言ってやらせるのではなく。
ご見学の大人たちは、手をかけてやってあげているその中身がわかりませんから、その中に教育を感じません。紙で何か作っていれば、「製作している」と思います。小さい時は描いてあげたり塗ってあげたり、ハサミで切ってあげたり、セロハンテープもちょうどいい長さに切って渡してあげたりします。「なぜやらせないのですか」といわゆる教育母たちに言われますが、これらは皆精神的な指導だと考えています。子どもは惜しみなく世話をしていると、自らの能力を発揮するようになるのです。
もうひとつ。やってあげる理由は何か。自分の手でするようになった時、きちんとやってほしいからです。
できないまま、何でもかんでもやらせていると頭を使わなくなります。握力が育っていない子どもにホッチキスを持たせると、必要なところだけでなくいくらでも打ち込んでしまうでしょう。やってもらう経験をしていれば、保育者がいちいち言わなくても「こことこことここ、3か所位でいいんだな」と自ら学びます。握力がついてできるようになった時には針をムダに使わず、自分で考え、ちょうどいい間隔できれいに仕上げます。お面作りの時はホッチキスの針の痛い方が肌に当たらないよう、自ら配慮するようにもなります。ハサミも”危ないものだから”が身につき、神経を使い、扱います。言われてするのではなく自分から。
保育者が子どもの手の代わりになって一人ひとりの思いを形にしていく生活の中、保育者にしてもらったことに自分の考えをプラスしながら、いつの間にか創造性が培われていくのです。指導の中味は外側からは見えません。年齢によっても、子どもそれぞれによっても違いますから。
「自発性を大切に」ということは、昔からよく言われています。やってあげているといわゆる教育的で、中身の見えないお母様から「過保護なのでは」と批判されそうです。「依頼心を育ててしまう」と。
逆なのです。やってあげると安心して次に進めるのです。安心感は次への意欲、自発性になるのです。手をかけることは心をかけることですから、依頼心にはならないのですよ。どうぞ信じてください。何十年もこうして保育を続け、あの高校生や中学生の中にもある、生きる力の基本を培ってきた幼稚園なのですから。
ちなみに、「自分でやらせましょう」というご家庭のお子さんは、心が硬く不満や不安で一杯。いつまでもお母様の気を引いて泣いたり、不機嫌が続き、自分の力を使いません。お母様は一生けんめい自分でさせよう、自分の力を使わせようとなさるから、幼稚園で保育者たちが一生けんめいお世話しても、効果はなかなか現れません。
なりたてのお父様は、小さなお子さんのことはわからないから、「ママがいつも甘やかしているからだ」などとおっしゃるかもしれませんが、気になさらないことです。お母様に気づきがあり、無条件のお世話ができるようになると、母も子も硬かった心が柔らかくなって、お子さんは自分の力を自発的に発揮するようになります。今まで口ばかり使ってきたお母様もいつの間にかご自身の中に眠っていた力を主体的に使っているのです。なんて嬉しいことでしょう。そうなってくると”教育はお互い”ですから、母にも子にも人生を生きる力が育っていくのです。なりたてのお父様も母と子によって父として育っていきます。
小さいお子さんが転んだら、起こしてあげていいのですよ。「痛かったわね」と起こしてくださるお母様の手を、心と身体が覚えているから、お母様がいない時に自分でちゃんと起き上がるのです。手は心なのです。
自分で起きなさいといつも促されているお子さんは幼稚園では助け起こしてほしくて「痛い痛い」といつまでも気を引きます。心が痛いのです。小さい時は一心同体のように生活してほしい。お子さんを信じて無条件でお世話してあげてほしいです。柔かく広い心を育てるために。
幼稚園はお家よりお子さんが多いため、相当スピードがないと保育になりません。そのため「リズムの研究」をしています。何と言っても身体がリズミカルに動かなくてはいけませんから。いろいろな身体の動かし方がありますが、身体の中の機能が働かなければなりません。
身体が動くとリズムが生まれます。保育の至る所にリズムがあります。ブランコの子どもの背中を押す手にも。積み木を片づける動きにも、お子さんに紙を一枚渡すのにも、身体の中を流れる血液の循環にもリズムがあります。保育者の血液がリズミカルに流れれば、頭も身体もよく動き、それがお子さんに通じ、お子さんの頭も身体もリズミカルによく動くようになります。
するとお子さん同士も響き合い、遊びの生活がリズミカルになり、いいアイデアもたくさん生まれます。クラス全体が充実するのです。保育者がのたのたしていたのではそうはなりません。保育者の身体からにじみ出るいろいろの大事なものが、クラスの空気を作るのです。幼児は空気で育つのですから。
ご家庭も同じ。お家の空気、雰囲気は、お母様が作るのです。口で”ごてごて”身体は”のたのた”より、美しく動きリズミカルで親切なお母様がお子さんはきっと嬉しい。お家の空気がリズミカルに流れると、母と子の心持ちも前向きになり、お子さんを叱ることもなくなります。叱ってばかりいると、大切なお子さんの中にそういう性格の特性を育ててしまいますもの、”怒り”という。
お家で絶えず叱られたり咎められたりしているお子さんは、幼稚園でお友達に怒りをぶつけます。そんなお子さんがもし何人もいたら、今のような建設的な集団でなくその反対、破壊的集団になってしまいます。そういう園は少なくありません。
家庭でも園でも叱られ咎められているお子さんは、大人の目のない所で心身に溜め込んだ怒りを吐き出すようになります。そんなお子さんを育ててしまったら、子育ては失敗です。幼児教育の肝腎は”親切”なのです。口ばかりでなく身体を動かし親切に手をかけてあげることが家庭教育です。”家庭教育”などという言葉は今は死語なのでしょうか。人間形成の基本なのですが。
この高階幼稚園で大切な幼児期を生きた年長児たちの、保育修了の時が迫ってきました。
成長の喜びに輝く子どもたちと、過ぎゆく時の速さに複雑な思いの大人たち。幼稚園の自然の中での生活。掘ったり、積んだり、登ったり、漕いだ%。投げたり、打ったり、走ったり、跳んだり。描いたり、作ったり、踊ったり、劇をしたり。お母さんのお弁当に支えられいいことをたくさん考えて遊んだ子どもたちの主体的でリズミカルな生活。ごっこ遊びは生活の中心でした。学校ごっこはもうすぐごっこでなくなるのですが、だからといって手を退くのではなく最後まで手をかけていきましょう。二度と戻らない幼稚園児としての日々を子ども同士の力で精一杯充実して生きられるよう、私共保育者も保育終了のその日まで精一杯尽くします。
友達同士、共感し合いながらの生活で育まれたもの。旺盛な意欲と意志。自ら感じ考え判断する主体性豊かな創造性お子さんとの園生活でお母様の中にも育まれたものがあります。お子さんと同様、持っている能力を発揮し、頭も身体もリズミカルに動かして主体的に生活する力です。子育てほど主体的な仕事はありません。いつの間にか知らずしらず人生を生きる力が身についたのです。お子さんにもお母様にも———。これからの人生、どんなことがあっても身についたものは消えません。一生使える財産です。
出会いがあれば別れがあります。お別れは辛いですが明るい春4月へ向かって大きく手を振りながら元気に歩いていきましょう。あの中学生たちのように、いいお顔で———。でも”小学生生活”や”小学生の母生活”にくたびれた時は、いつだって幼稚園に帰ってきていいのです。ここは出発点、みんなの大好きな教育のふるさとなのですから。
幼稚園はいつでもあなたを待っています———。
わかれの日に(倉橋惣三選集より)
子ども達が幼稚園を去ってゆく保育終了の日は、入園の時から楽しみ待った日である。この日こそ、子ども達の幸福の日、喜びの日である。それを、なぜ、そっと拭う先生の涙か。祝い、喜び、あすの入学を祝福しながら、それなのに、先生方は悲しいという。なんの悲しみか。
教育をしている。保育をしていると思ったのは、目的を見つめての言葉に過ぎなかった。その子のためにと思っていたのも、任務を顧みての言葉に過ぎなかった。もし、それだけのことだったら、今日、先生方の目に涙は光らない。
毎日、ほんとうに、子ども達と会っていたのだ。自分の方で多く受けていたのだ。それだから、
わかれが悲しいのだ。ということが、今日にこそ思いつかれる。
思えば、毎日は、そんなにも、先生に嬉しく、喜ばしく、楽しい日であったのである。