園だより(令和6年度2月)

休日の街を歩くといろいろな親子に出会います。園児親子にバッタリ、ということも。幼稚園でない所にいる保育者に、不思議な面持ちのお子さん。「なんでこんなところにいるの?先生は幼稚園にいるんでしょ!」とお子さんから訓戒を与えられることもあり、嬉しいかぎりです。

幼稚園の先生たちは現実の世界でなく、幼稚園という世界に生きていると、そんなふうに感じているのでしょう。小さな子どもは魔法の国に住んでいるのだ。私達は幼稚園で一生けんめい生きなければ。と身にしみて感じます。

仕事柄、街で出会う見知らぬ親子のいろいろが、目に耳に伝達されます。ひと昔前、ご両親と一緒の乳幼児はたいていにこにこしていたように思うのですが、不機嫌のしかめっつらばかり。我が子が金切り声をあげ、泣き叫び、いくら不満を訴えても、ご両親は無反応。ただ黙っている。という場面の多いこと多いこと。かと思うと、がまんできなくなった父親が、「いつになったら泣きやむんだ!」とお説教に至ったり。

こちらは、お子さんの心情がわかるだけに、いたたまれなくなって、親御さんが向こうを向いている隙に、笑いかけたり手を振ったりしてしまいます。ついつい。そんなことで気がそれて泣きやむお子さん。こんなことで気持ちが上向きになるのだから、二人いるご両親にだってできるはずなのに、と歯痒さを通り越し、絶望感に落ち入ります。まるで小さな子どもの心情に価値はないかのようです。

でも、と気を取り直し考えてみると、お子さんを保育所や子ども園に長時間暗くなるまで預けていたら、我が子との絆は細いまま。機嫌の悪い我が子にどう接したらいいかきっとわからないのだ、ということに思い至ります。接する、というのは互いに隔てなくつながるという意味です。時間という隔てがあるのですから、難しいのです。

小さい不機嫌さんだって、お家を出たとたんに泣き叫んでいるわけではないでしょうから、”そうなる前”という時があるわけです。いい表情でいる時にご両親が心を働かせ、「あ、いいお顔をしている」などと褒めたりなさっていれば、おヘソが曲がり始めるまでけっこう持つのですが。お買物などのご両親のご用は、小さい幼児にとってはつまらないのでしょう。おヘソが曲がって泣いたり叫んだりするのだって、したくてしているのではないのですから、ご両親が心を働かせてあげなければ。

けれど”気をそらす”などと言うことはご存知ないでしょうから、いずれ泣き叫びが始まります。

いつものことなのでしょうが、「つまらなくなっちゃったわね」とか「よくがまんしたわね」とか「もうがまんするのいやになっちゃったのよね」など、我が子のそうした行動のその中身を汲み、その行動に意味づけしてあげられるといいのですが。黙っていないで———。そういうご両親だったらお子さんはどんなに嬉しいでしょうし、乱れた気持ちの整理がつくことでしょう。そうなれば、小さい不機嫌さんだって前向きな心持ちになることができるかも知れません。

小さな幼児は”機嫌がいい”ということが大切なこと。人生でいちばん大切な基本なのに、不機嫌という土台がもうできあがっていそうで、気の毒なことです。母と子が長時間離ればなれでいると、お互いがお互いから学べないのだなあ、と思ったことでした。

“行動の意味づけ”は年齢に応じ、幼稚園の保育者たちの目や耳や心や身体を通し行なわれています。高階幼稚園は、一斉保育の幼稚園のように、そろって机の前に座り、同一の課題を他律的にするところではありません。子どもさながらの遊びの生活を崩さず、子どもの中から湧いてきたものを大切に、その中に教育を入れていく生活。お友達どうしがお互いの教育環境となってかかわり合い、響き合い、お互いどうしが伸びていく。そういう生活をする所が高階幼稚園です。

そういう生活をしていると、お友達との遊びの生活の中、子どもながらに深い仲間関係がつくられます。よい仲間関係を育てるために、保育者たちは子どもの頭の中でどんなことが起こっているかを常に考えて行動します。お友達が今してしまった行為の意味を、保育者はその子どもの発達史や表情を手がかりに汲み取り、言葉にします。

年少児の時代は感情の使い方を学ぶ時期です。泣いたり怒ったり、思わずお友達をぶってしまったり、ということも。3歳の頃は「やってやろう」などという気持ちはないですから、なるべく良く受け取ってあげなければ。

ぶってしまった子どもを叱ることは、周りで見ている子どもたちに、「○ちゃんは悪い子」と思わせてしまうことになりかねません。それで「ごめんなさい、うっかりぶつかっちゃったのよね」「お手々がまちがっちゃったのね」というように、子どもに代わって保育者が”行動の意味づけ”をするのです。信頼している保育者がそう言うのですから、ぶたれた子どももああそうなのかと安心します。良い方向に受け取るという保育の日常が、友達どうしの心を広く柔らかくします。建設的な友達関係の構築につながるのです。

反対に、小さな心を責めたり追求したりするご家庭もあるかと思います。それが教育だと勘違いなさっているのかも知れませんが、狭量で硬い心を持った人間に育ててしまったら大変です。そういう心を持った子どもが集まってしまったら、建設的の反対、破壊的な集団が構築されてしまうでしょう。小さな我が子の頭の中(心の中)でどんなことが起こっているか、ご両親も心の目でよくごらんになることを望みます。ご夫婦でご自分たちの”行動の意味づけ”をしてみたらどうでしょう。

幼稚園の子どもたちが年長くらいになり、本人が「悪かった」と自覚できるお歳がきたら、「まちがっちゃった」は使いません。「ついうっかりしちゃったのね」と言うことはありますが、その行動は悪いとはっきり指摘してあげます。

例えば、「貸して」も言わずにお友達の使っていた遊具を持っていってしまった時など。「それは○ちゃん悪いわよ。黙って持っていったら誰だって怒っちゃう」というふうに、はっきりと善悪を伝えます。お友達の気持ちを考えることができるようになっていますから、相手にいやな思いをさせてしまった自分の行動に気づき、そういうことをするのはやめようと思うようになります。

“行動の意味づけ”は周囲のお友達の目に耳に心に響き、意識化され、互いの行動の目当てになるのです。短く簡潔な担任の言葉は、子どもたちでも使えます。子どもどうしの”その時”に生かされるのです。

3歳の頃は夢の世界に生きていますから、「◯ちゃんは悪くないんだけれど、お手々がまちがっちゃったのね」が有効です。よくまちがえる手には、その手に少しでも神経が伝わるよう、言葉で言うだけでなく、いいお手々になるように、なでたりさすったりします。お友達も先生に「〇ちゃんまた手がまちがったよ、おまじないしてあげて」と言ってきたりもします。”行動の意味づけ”が互いの進んでいく方向の目当てになっているのです。小さな子どもたちであっても。

保育者も、「それは大変!〇ちゃん、あなたの手によく言っておいて、まちがえないように」と言いながら、惜しみなくお世話します。肯定的な人間観を持って誠実に、一貫性のある関わり方で。そうしているうちに、いつのまにかやってきます。「ちゃんこのごろえらくなったわね、いいお手々になって」と言ってあげられる日が。手ではなく〇ちゃんを褒める日が———。お友達も喜んでくれます。3歳の人たちは特別な時代を生きているのです。

以前年中さんで途中入園なさったお子さんが、「手がまちがったあ!?〇ちゃんがやったんでしょ!」と言っていました。もう現実の大人の世界の住人なのです。

幼稚園では、お子さんをお預りした以上、幼稚園の力でお子さんの持って生まれた力を正しく使わせていかなければならないのですが、基本はご家庭にあります。

お家で毎日言い聞かされたり叱られたり。気持ちを汲んでもらえず、ちょうどいい時にちょうどいいことも言ってもらえず、年齢にそぐわないいろいろをしなければならない。そういう場合、「感じる」という、「考える」「判断する」の前段階がうまく働きません。幼稚園だけがんばっていいお手々にするのは難しいことです。

そういうお子さんは、決まったことはするのですが、「感じる」気持ちが乏しいので、自分の感情の使い方がわかっていかないのです。感じるから考える。その次に判断する。という生きる力の基本がお友達との遊びの生活の中で育っていくはずなのですが、持って生まれた自分の力の上に、他律的ないわゆる教育がのしかかり、自分の力は下積みになって使えないのです。お友達もまちがってばかりいるお子さんから遠ざかってしまいます。高階幼稚園にはそういうお子さんはめったにいませんが。

そういうふうだと、字や数字は読めたり書けたりしても、3歳の子どもとしての発達を遂げることは難しいこと。それが基本でそれからがあるのですから。4歳は4歳の時、5歳は5歳の時使うべき力を使うことも難しくなります。その時にしておかなければならないことをさせず、大切な幼児期をいわゆる教育的、付け焼き刃的、他律的に過ごさせた場合、そのお子さんはどうなってしまうのでしょう。

左右の感覚は、幼児期の後期になって発達するもの。だからそれ以前は鏡文字になるのはあたり前。それなのに小さい頃から何度も書き直しをさせられたりする無意味。時期がくればすぐ覚えてしまうことを延々とさせられ、本当にしなければならないことを軽んじられる虚しさ。大切な幼児期を無駄にしているうちに、自分の感情の使い方、持って生まれた力の使い方もわからない人間に育ってしまうのです。

小学校にはそういうお子さんがたくさんいるのだそう。卒園し、入学した子どもたちが、時々幼稚園にやって来て、「森さんたちの方が学校の子よりずっとえらいよ」とこぼし話をして帰ります。

少し昔はこれこれができていれば、当然これもできている、という幼児として当たり前の発達がありました。都市化のためか、便利になったためか、損をこうむっているのは小さな幼児たちです。幼児の脳がどういう具合に発達して今があるのか。その発達史が気がかりなお子さんが増えました。が、私どもは惜しみなく手をかけ心をかけ、幼児の世界のお風呂に肩まで首まで浸かるようにして、お子さんたちと共に生きています。そうするしかないのです。

幼稚園の生活は、目に見えない小さなことを大切にする毎日です。この生活の上にこれからが積み重なるのですから。

数年前の森の組。3学期のある日の”お帰り”。したくが終わり、椅子を並べて静かに座っているみんな。一人のお子さんのトイレのお世話で少し時間がかかっている担任の耳に、こんな声が聞こえてきました。「先生~!〇ちゃんのお手々がちょっとまちがっちゃったから、おまじないしといたよーもういいお手々になったからねー」トイレの中でしみじみ嬉しい担任。いい集団になってきたのだ。この上にこれからの生活が積み重なっていくのだと———。

やはり森の組3学期の、ついこの間のこと。お庭の3輪車2台を連結させようと、AちゃんBちゃんがさっきから工夫をこらしています。工事中だからと、Bちゃんは砂場の3角コーンを3輪車の周囲に並べていたのですが、Aちゃんがそのひとつを取って3輪車の後部の穴に差し込んでしまいました。これで連結できると考えたのですね。きれいに並べてあった3角コーンがひとつ取りのぞかれてしまいました。「うーん、ここから人が入ってきて危ないじゃないか」「工事なのに」とBちゃん。

けれどBちゃん怒らず、いいことを思いついて砂場に行き、バケツを持ってきて取りのぞかれた3角コーンの場所に置いたのです。これでよし、と。少し前のBちゃんだったら3角コーンにこだわり、機嫌を悪くして遊びは終了だったのですが。

AちゃんはAちゃんでBちゃんの着想がおもしろかったらしく、2人、満足そうに工事ごっこを続けました。3輪車の連結はかないませんでしたが、互いの行動を受け入れながらイメージを形にする工夫がずっと続いたので、担任は遊びに入らず、見守ることにしたのです。

“イメージの共有”。2人は字を覚えるよりずっと難しいことをしているのです。以前はAちゃんにもBちゃんにも人を受け入れないような場面がそこここで見られたのですが、変わってきた2人にしみじみ嬉しい担任。

AちゃんBちゃんのご両親がきっと、お子さんのお歳にふさわしい接し方を学んだのです。お子さんから。お父様お母様が変わると、お子さんはすぐ変わります。これは何十年も研究を重ねて得られたこと。「相手を変えようと思うと難しいが、自分が変われば割合早く相手が変わる」。これです。

森の組の生活のその上にそれからが積み重なって、子どもたちは育っていきます。山の年長さんたちの表情からは、毎日の充実が伝わってきます。誕生会のステージのいろいろが山さんたちの遊びの生活のひとつに加わって、一生けんめいな日々です。

年長さんたちの誕生会はあと1回を残すのみ。幼児期はなんと短いことか。小さい子どもの母時代も、いろいろなことがありながら、あっという間に終わってしまいます。母として、育てる者として、”行動の意味づけ”について、こんな時こう言ってみた、などあれこれ話してみるのもいいのでは。自然になさっているかたもあれば、そうでないかたもきっとあるはず。母どうしも互いが教育環境なのですから。

凍えるような冬の自然幼稚園に、水仙が咲き出しました。園庭のそこここに花の赤ちゃんたちが小さな顔をのぞかせています。土の下では春のお母さんが、毎日大仕事をしているのです。それぞれの花も元気に美しく咲かせるために。いろいろな色や形の帽子や服を、せっせと縫ったり編んだりしている春のお母さんの姿を想像し、心を澄ます2月、春隣の幼稚園です———。