園だより(令和6年度12月)

秋と冬の鬼ごっこが続く、初冬の幼稚園。木々たちがお庭いっぱい葉っぱを降らせたら、集めてまた焼きいもができるねとベテラン園児たち。お庭の熊手やほうきが活躍する季節が、今年もやってきたのです。

ベテラン園児たちは先ごろ就学児健診に行き、大きくなった実感が、お母様がたには、我が子の育ちの実感があったご様子。

小学校には周囲の幼稚園や保育所から、たくさん子どもがやって来ていて、そのわきまえのなさに驚いたとおっしゃるお母様がた。周囲の子どもたちのふるまいに動じることなく、落ち着いて行動できた我が子たちにも驚いたそう。自ら感じ考え判断する生活が身についているのだと。園と家庭の日常の大切さに思い至ったとのこと。二人目や三人目のお子さんのお母様がたは「ね、そうだったでしょ」と。

そして、どの小学校でもビデオを見せていたことに、「やっぱりね。子どもたちが静かに待てないから、とうとうそうなったのよ」だそうです。なぜ幼稚園で3年も4年も、保育所では5年も6年も保育を受けていて、わきまえが育っていないのか。幼児教育者としてやりきれない思いです。おまけに我が子が静かに待っていると「元気がない、子どもらしくない、大丈夫なの?」と言われたとの話も。「場をわきまえずワイワイ騒ぐのが子どもらしいと思っている女たちに、それは大マチガイだと言いたかった」とお母様。

先日幼稚園のお庭に移動動物園がやって来ました。子どもたちは喜んで、スタッフのかたたちのお話をよく聞き、動物たちとやさしく丁寧に関わって、満足した様子。強引にしたら動物さんたちがびっくりするからと使える神経を精一林使い、充実したけれどくたびれた一日だったのでしょう。

昨年もこの移動動物園の後転ぶお子さんが多く、驚いたことでした。いつもはそんなことないのに。今年も帰宅後、いつもはしないお昼寝をしたお子さんが何人もいたそうです。子どもたちがどんなに一生けんめいだったかよくわかったとお母様たち。

移動動物園のスタッフのかたたちは「高階幼稚園に来るのが楽しみなんです」とおっしゃっていました。自然が豊かだからかなと思っていたら、それももちろんだけれど、といろいろ話してくださいました。「他の園の子どもたちはこちらの話を聞いてくれず走り回ったり、母たちは大声で怒ったりするから動物たちがかわいそうで…。ここはそんなことは全くなく、動物たちにやさしくしてくれるいいかたたちばかりで嬉しい。救われます」とのお話にまた胸がふさがる思いです。(お別れには幼稚園の落ち葉⦅農薬ゼロ!⦆とおいもの武藤園で頂いた小さいおいもをお土産にしました)

先生がたのご苦労も多いためか、小学校教諭がとても少ないという話も聞きます。幼稚園教諭も、もちろんなり手がいません。「重労働だから」「母親たちが怖いから」と大学で幼児教育を学んでも一般企業へ就職していきます。

保育所は一人担任ではなく楽だろうからという理由で幼稚園よりは人気らしいです。せっかく大学で4年間しっかり学んだのに(保育所の保育士は2年の課程)。そして、職に就いてまもなく転職です。高階幼稚園にもよく転職希望者が見学に訪れます。ホームページを見ると、遊んでいる子どもたちの自然な様子に楽しそうだと思われるようなのですが、保育の中身をお話するとたいていどなたもしり込みなさいます。もちろん「担任はしたくない。保育に関わりたいがお手伝いがいい」というかたがほとんどです。楽なことしかしたくないのです。

高階幼稚園はこの地が「高階村」だったころ誕生し、もうすぐ70歳になります。筆者がこの園の教諭になってからそろそろ50年です。この園はそのままなのに周囲の自然はどんどんなくなりました。まるであの絵本バージニア・リー・バートンの「ちいさいおうち」のように。自然も変化しましたが、もっと変わったのは母たちです。都市化が始まり、母たちも都市化しました。

給食もバスもない幼稚園なんて不便!とばかりに、新しく建ったいわゆるサービスのある幼稚園の園児が増えました。給食(仕出し屋弁当)あり、バスあり、小学校の予備校のような幼稚園や長時間預かってくれる幼稚園が人気になりました。園児の争奪戦で、「英語を導入すると園児が100人増える」などという企業のPRに乗る園もありで、幼児教育はメチャメチャ。お母様がたは自分が楽。お勉強も教えてくれて(幼児の発達は無視して)、英語まで教えてくれて(母語は小脳外、国語は大脳の管轄。大脳は忘れる脳だから忘れてしまうのですが)、長く預かってくれる幼稚園。そういう幼稚園をあたり前に選ぶようになり、そのうちもっと便利な保育所保育所が足りなくなったら、保育所機能をつけたこども園(というあり方を幼稚園に設けた)。そしてそういう園ばかりになりました。家庭も幼稚園も合理化です。子どもは合理的に育てられるようになったのです。

「幼稚園は情操教育」と言われた時代は過ぎ去ってしまいました。情操教育とは何か。「創造的・主体的な心情豊かな感受性と自己表現の能力を育てる。知性・道徳性・美的感覚・共感性、などの調和を旨とする」短く言うとそういうこと。

子どもの中身、外側には見えない心(脳)を育てるのが幼児の教育。人生を生きていくための基本の力、良識の土台を培うのが幼稚園。いつも申し上げているように、さあこれこれを教えますよ、でなく、いつとはなしにいつでもしているのが幼児の教育なのですが。

そして、都市化・合理化・早期教育の時代の申し子が今のお母様たちなのです。時代はもっと進みました。「仕事をしないと恥ずかしいのかな」「お隣の奥さんもお化粧して会社に行っていて、子育てで忙しい私に、いつもスッピンで女じゃない、なんて言うんです」などなど、20年程前まではそんな風。今は欧米から導入したジェンダーギャップの思想に則り、子は人に預け、母は仕事があたり前の時代になったのです。我が子との充実より仕事での充実がしたいのです。

今の母たちがこの世に生を受ける直前か、小さな幼児だった頃のことです。日本の生物学・植物学者の太田次郎先生(当時お茶の水女子大学、学長先生)がこの小さな幼稚園のご講演を引き受けてくださいました。「最近は小学校のようなことをさせる幼稚園ばかりと聞き驚いた。人類が始まって以来したことがないことをしている。いわゆる早期教育は幼児の自然な発達に逆らうことだ。私の子どもにはそんな恐ろしい冒険はさせない」。そうおっしゃっていたお姿が蘇えります。

合理化、早期教育の時代に育った今の母たちは子育てが重荷。自分を育ててくれた母との日常生活の豊かな思い出がない。ただ勉強をして、母の評価を得る、という生活。目的に向かってがんばることばかりだった。自己肯定感がない。自信がない。人にどう思われているか気になる。そうおっしゃるお母様がたのなんと多いことか。

我が子との絆も細いため、子育てが苦しい。もともと子どもを育てることは楽なことではないけれど、苦しくても我が子の表情に心を動かされることが増え、ああ私がいるからこの子がこんなに生き生きしているのだと、だんだんと”お互いどうし”の間柄になり、かわいがれるようになり、もっともっとお互いどうしが強くなり、母と子の絆もだんだん太くなってくると、我が子がどんどんかわいくなり、子育てが楽になってきて、自分にも我が子にも自信が生まれ、お母様の持って生まれた力が、その主体性や創造性が日常生活で発揮されるようになって…、そしてだんだん育てる者として母も成長していくのですが。

親切にすること。手をかけることは心をかけることだから。といつも申し上げていますが、「手をかける、というより、口ばかりかけられて育った」とおっしゃるお母様が多いです。ご実家に行った時、我が子に手をかけていると、おばあちゃま(お母様のお母様)がこうおっしゃるそう。「自分でさせなさい。依頼心が育ってしまうから」と(心でやってあげるのだから依頼心にならないのですが)。

「自分はこうやって母に育てられ、自己肯定感がないのだなあ。かわいがられた実感がないからなのだなあ、ということが本当によくわかった」。そして「やっと母から自立できた」。「かわいがればかわいがる程いい子になる、ということも今はよくわかる」。そう話してくださったお母様も一人や二人ではありません。

幼児と共に生きる生活を長く続けていると、その時代が育てた子どもがどんな育ちをしているか気づきます。生きる力を育ててきたか、育てられなかったか、が実感できます。図らずも、というか当然にというか、その時代に育った子どもが母や父になり、次の世代の我が子を連れて、幼稚園に、またはちいさいおにわカフェにいらっしゃるのですから。

この高階幼稚園で育ったお子さんが母になり、我が子を連れた再会の嬉しいこと。「自分が母にしてもらったように、この子供も嬉しいお弁当を作りたい」。「母と一緒は毎日が楽しかった、楽しくない日は一日もなかった」。お嬢さんとのそういう会話を今はおばあちゃまになったお母様たちにお伝えしたところ、「そんなこと言ってたの」と驚かれ、こんなに嬉しいことはないと涙、涙でした。

おばあちゃまがたは、しっかり子育てした上でお仕事をなさっているのです。時代に流されず、子育てなさったお母様の子どもである今の母たち。みんなそうだからと時代に乗り、合理的に子育てなさったお母様の子どもである今の母たち。その生き易さの違いを日々ひしひしと感じながら子どもたちと生きています。

ジェンダーキャップの思想は欧米から導入。日本は母性優位の国で、欧米の父性優位の国とは対照的なのです。アジアの他の諸国も母性的な心理が強いそうです。アジアの諸国の中で日本はヨーロッパの近代文明の取り入れに成功したけれど、完全な西洋化はしなかったのです。

母性は全てのものを全体として包み込む機能を持つのに対し、父性は物事を切断し、分離していく機能を持っています。欧米諸国があまりに父性を誇りすぎ、母性を断ち切りすぎたから、現在多くの行き詰まりに瀕しているのではないか。日本は西洋を取り入れながらも母性的なものを保持し続けてきたから、先進国の中で、社会があまり歪まずに済んだのではないか、とも言われていたそうです。少し前までは。

日本社会の男性と女性のジェンダーギャップ。女性の自己発揮ばかり叫ばれていますが、乳幼児たちだって呼びたいと思います。自分たちは大人たちがどう育ててくれたら最高に自己発揮できるか。

しかし、母たちからは税金を取れるけれど、子どもはお金を払わないので注目されません。でも母性社会であるはずの日本が、切り離す機能を持つ父性社会に侵食されてしまったら、いったいどうなるのでしょう。今でさえ母たちは自分が大事。(以前この幼稚園でも自分さがしをしたいからとお友達の家に我が子を預けて、子ども時代にできなかったことをなさっていたお母様がいました)大変だからと我が子を手離し、委託された保育士たちは大変だからと楽を求めて転職してしまうのですから。子どもたちに基本的信頼感など育つはずはありません。

何も言えない子どもたちはたっぷりかわいがられることもないまま適当に育てられるのです。身体は大きくなり、その中身の生きる力や良識の土台などは培われることもなしに、先に述べた幼児たちよりもっと虚しい心を持った人間に成長しそういう心の人間ばかりになってしまうのです。母たちも母としての成長がなく、子どもの心を育てること、人間の基本が全くわからないまま祖母になってしまうかもしれないのです。子育てを経験してその上でお仕事をなさるという選択もあったのにー。

「一番楽なのは子どもを産まないこと」「母にも祖母にもならなくて済むから」母たちみんながそうしているから、自分もそうする、という安易な選択を続けていくと、そんな世の中が近いうちにやってくるに違いありません。

35年程前からでしょうか、高階幼稚園の保育者たちは、学校の先生のようになってしまった母たちの代わりに、母親の役割をするようになりました。朝やってきたらまず、お子さんの不満や不安をしっかり受け止め、手をかけ心をかけ満足を与え、それから子ども自らの力を正しい方向へと導く。そういう生活です。一人ひとりの中身を育てる幼稚園ですが、不安や不満のお子さんがあまりに多かったなら、保育にはなりません。

小学校を小さくしたような一斉保育の幼稚園では一人ひとりにそんなことはできません。だからたくさんの言葉や、強い言葉、身振り手振り、フエによる号令でこちらを振り向かせたり、ある時は叱るなどして設定したお勉強をさせるのです。

だから先生の目がなく放っておかれる休み時間など、ただただふざけて発散する遊びをするしかないのです。あまりにも受ける言葉が多すぎて、自ら感じ考え判断する余地などないのです。おまけに帰宅後母たちにも同じように多くの言葉を浴びせられるのですから。

大人達は教えたつもりなのでしょうが、子どもたちの脳の発達にそぐわないいろいろを押しつけられる受け身の生活を3年も4年もさせられたらどうなるか。前述のような状態の子どもに育ってしまうのです。やりたいこともなくやりたくないこともなく意欲がない子ども。言われれば何かするが言われなければただただ発散するだけの子どもに。

また、保育所は不安や不満の子どもばかりを大勢預かるところです。心が虚しかったり、荒れている子どもをなんとかしようとがんばる保育士たちは疲れ果ててやめていきます。母との心豊かな日常などはないので。子どもたちは家庭の日常生活がどんなものかを知りません。母との日常がなかったら心の支えは何なのでしょうか。

高階劾稚園のお子さん。不安・不満をかかえ、それを園で発散しなければならないお子さんの父や母はご自分たちも合理的早期教育で育ったのかもしれません。そうやって育てられ、父や母になり、日常の生活をご自分がされたのと同じようになさっているのかもしれません。例えば絵。運動会で幼稚園の空を飾った子どもたちの手による万国旗。3歳児は好きな絵を描きます。4歳児は形は国旗らしくなりますが、好きな色を塗ります。5歳児年長さんになれば、形も色も本当らしくなります。意欲的に難しい旗に挑戦したりもします。大まかですがそういった発達というものが幼児にはあるのです。

それなのに3歳児年少さんに「この色はこうじゃないでしょ」などと本物の色を塗らせるようないわゆる教育的なご家庭もあります。お子さんは夢の世界を壊され、親たちの言うことを聞かなければならないのですから、幼稚園に来たら発散するしかありません。自分がお家でされているように、「○○でなければダメだよ!」とお友達にも要求しお友達を受け入れません。そしてまるで赤ちゃんのように甘えます。

文字や数字を早くから教え込むことも、お子さんの発達を妨げます。なんにもいいことはありません。親の満足のためでしかありません。柔らかい心、広い心を培うことが3歳のお子さんの肝腎なのですが、家庭生活がまるで学校のようになってしまっている場合、正しい発達は難しいです。

森の組のお歳のお子さんたちは特別な時代を生きていて、夢の世界に住んでいるのですから、夢の世界のその中で、イメージ豊かに教育をしなければ。現実的なことばかりさせていたら、心が硬く狭くなってしまいます。

この日本になくなってきつつあるもの、それは家庭の日常です。今子育て中のお母様の中で「子ども時代母と一緒に日常の楽しさを味わった」というかたはほんのわずかです。ご自身のお母様から日常生活の楽しさを学んだ母たちは子育てが楽です。苦しいこともありながら苦楽しく、子も自分も同時に育っています。いつの間にか知らずしらずに。教育はお互いなのです。

私たちにできることは日常生活を教えること。自分自身を味わわせること。小さな幼児たちはいつもの日常が嬉しいのです。泣くこともありながらいつもが嬉しく楽しいから、幼児たちはこの日々を生きるに値するものとして生きるのです。この世界を信じて。

森の組で嬉しいことがありました。落ち着かず遊びが続かない新入児Aちゃん。お母様は落ち着かせようとついつい口が多くなります。お母様の口数の多さがAちゃんの落ち着かない原因なのだからがまんがまん。と美子先生とお口の約束をしたAちゃんのお母様。

その後2~3日でAちゃんに変化が。遊びが続くようになり、ベビーカーでのお人形のお散歩も丁寧になり、絵本や人形復も最後まで興味が続くようになるなど嬉しい変化に驚いた保育者たち。Aちゃんのお母様は今までの日常を、ご自身を変えたのです。きっぱりと決意なさったのでしょう。お母様の”本気”に感動したことでした。

教育はお互い、と言っていますが、本当にそうなのです。美子先生の本気とAちゃん母の本気が響き合ったのです。こんな短い間に信じ合える間柄になれたなんて、なんとありがたいことでしょう。こういうことがあると、幼児教育はまだ大丈夫だとカづけられます。私たちもがんばろうと。

あっという間に2学期終了が近づきました。保育者たちは考えます。○ちゃんにはよい変化があった。△ちゃんは□ちゃんは……と。

子どもたちもそうですが、都市化のせいでお母様の心身にも持って生まれた力がまだ使われずにしまわれているかもしれません。せっかく母親になったのですから、高階幼稚園の保育者たちがお母様の人生を生きる力を育てるお手伝いをいたします。お母様とお子さんの人生を支えるために一一一。

寒さがやってきますが、子どもたちには嬉しい季節です。初冬の自然幼稚園の豊かさを子どもたちだけでなくお母様にも味わってほしい。限りある小さい子どもの母として、子どもたちと共に創意に満ちてー一一。

そう願う12月、親子月の幼稚園です一一一。